この記事には、映画『オデュッセイア』の結末に触れる記述が含まれます。
映画視聴前の予習記事としては、客の名を尋ねるのは食事のあと:『オデュッセイア』の「ゼウスの掟」/『オデュッセイア』:「ノスタルジー」とは帰れない苦しみだったをご覧ください。
ἔκλησιν θέωμεν——忘却を置こう。(原典、神々の最後の決定)
罪は忘れられ、そして繰り返される。(映画、船の上の言葉)
映画『オデュッセイア』を観終えて、最後の場面が引っかかった方もいるでしょう。二十年かけてようやく故郷イタケへ帰り着いた男が、王座を息子に託し、妻とともにまた船を出していきます。帰る物語のはずが、もう一度の出発で終わる。そして船の上で彼は言います。罪は忘れられ、そして繰り返される、と。
原典であるホメロスの『オデュッセイア』は、ここがまるで違います。全二十四歌のうち、主人公が館に居座っていた男たちを討ち果たすのは第22歌です。物語はそのあとも続き、最後の場面で神々が下す決定は、ひとことで言えば「人々に忘れさせる」ことでした。
原典は神が忘れさせて終わり、映画は人が忘れないために歌を残して終わる。この記事は、その違いを原典の行からたどります。
「忘却を置こう」——神が終わらせる結末
まず、原典の結末で何が起きるのかを押さえます。オデュッセウスが戦争と漂流で二十年帰らないあいだ、故郷の館には近隣の有力者の息子たちが押し入っていました。妻ペネロペイアに求婚し、そのまま居座り、彼の家畜を屠って毎日宴会を開いていた者たちです。物乞いに身をやつして館へ戻ったオデュッセウスは、その全員を討ち果たします。
原典では、いきなり乱闘が始まるわけではありません。最初の一人を倒したあと、正体を明かすその言葉で、まず求婚者の罪を数え上げます。
ὦ κύνες, οὔ μʼ ἔτʼ ἐφάσκεθʼ ὑπότροπον οἴκαδʼ ἱκέσθαι δήμου ἄπο Τρώων, ὅτι μοι κατεκείρετε οἶκον, δμῳῇσιν δὲ γυναιξὶ παρευνάζεσθε βιαίως, αὐτοῦ τε ζώοντος ὑπεμνάασθε γυναῖκα, οὔτε θεοὺς δείσαντες, οἳ οὐρανὸν εὐρὺν ἔχουσιν, οὔτε τινʼ ἀνθρώπων νέμεσιν κατόπισθεν ἔσεσθαι· νῦν ὑμῖν καὶ πᾶσιν ὀλέθρου πείρατʼ ἐφῆπται.
「犬どもよ、お前たちはもはや私がトロイアの地から家へ帰り着くとは思っていなかったな。 それで私の家を食い荒らし、 侍女たちを力ずくで手籠めにし、 この私が生きているのにその妻に求婚したのだ、 広い天を持つ神々を恐れず、 人間からの報いが後に来ることも恐れずに。 今こそお前たち全員に、破滅の縄が掛けられた。」
(Homer Odyssey 22.35–41)
家を食い荒らした、侍女を手籠めにした、夫が生きているのにその妻に求婚した。殺す前に、相手が何をしたのかを並べる。この一手で、これから始まる殺害は私的な報復ではなく、罪に対する処罰という形を取ります。討ち終えたあとも彼は、この者たちは神々の定めと自らの非道な行いによって倒れたのだ、と念を押します (22.413-416)。原典のオデュッセウスに、求婚者殺しをめぐる罪の意識はありません。あるのは穢れと、それを祓う儀礼です。乳母に硫黄を持ってこさせ、広間を燻べて清める (22.481-482)。誰も彼自身に身を清めよとは言いませんし、島を出ろとも言いません。
残る問題は一つ、討たれた男たちの身内です。彼は歌い手に竪琴を弾かせ、外を通る者が婚礼と思うように偽装して時間を稼ぎます (23.131-136)。それでも遺族は集まり、集会が開かれ、求婚者たちの筆頭アンティノオスの父親が涙ながらに訴えます。オデュッセウスはギリシア人に大それたことをした。多くの優れた者を船に乗せて連れて行き、船も人も失わせ、帰ってきてからも最良の者たちを殺したのだ、と (24.426-429)。遺族の口では、航海で失われた仲間と館で討たれた男たちの両方が、主人公の所業として並びます。
遺族たちは武器を取って攻め寄せます。原典はここに、ひやりとする一節を置いています。オデュッセウスらは全員を殺し、帰る道を奪ってしまうところだった——アテナが声を上げて全軍を制止しなければ (24.528-530)。報復は、放っておけば終わりません。だから原典は最後の手を打ちます。オリュンポスの上でゼウスとアテナが決定を下すのです。
ἐπεὶ δὴ μνηστῆρας ἐτίσατο δῖος Ὀδυσσεύς, ὅρκια πιστὰ ταμόντες ὁ μὲν βασιλευέτω αἰεί, ἡμεῖς δʼ αὖ παίδων τε κασιγνήτων τε φόνοιο ἔκλησιν θέωμεν· τοὶ δʼ ἀλλήλους φιλεόντων ὡς τὸ πάρος, πλοῦτος δὲ καὶ εἰρήνη ἅλις ἔστω.
「高貴なオデュッセウスが求婚者たちに報いを果たした以上、 犠牲により確かな誓いを交わし、彼は永く王たれ。 われらのほうは、息子たちや兄弟の殺害について 忘却を置こう。人々は以前のように 互いを愛し合い、富と平和が満ちるように。」
(Homer Odyssey 24.482–486)
原典の結末で最後に働くのは、和解ではありません。忘却です。覚えていれば報復が続いてしまうから、神が人々から記憶を抜き取ってしまう。四行目の頭にある一語 ἔκλησις(エクレーシス)がそれで、「忘れさせること」を意味します。取り決めはしかと実行され、ゼウスが雷を投げ、アテナがオデュッセウスに争いを止めよと告げます (24.539-544)。そして彼の王位が約束されます。原文と対訳は Humanitext Reader で第24歌の終幕 から確かめられます。
この終わり方は、古代からすでに落ち着きの悪いものでした。第23歌296行、オデュッセウスとペネロペイアが寝床へ向かう場面に付された古注は、アレクサンドリアの学者アリストパネスとアリスタルコスがここを『オデュッセイア』の「終わり(πέρας)」とみなした、と伝えています (schol. ad Od. 23.296)。この語が終結を意味するのか頂点を意味するのかは今も読みが分かれますが、どちらの読みでも、その先——遺族の蜂起と神の忘却——は、二人がこの詩の到達点の後に置いた部分にあたります。映画が切り落としたのは、まさにその部分です。
消すのは神で、残るのは王。原典の結末は、その形をしています。
忘れることの甘さ——原典における忘却
神が人々に置くこの忘却を、詩は前半で既に一度、薬として見せています。スパルタでヘレネが客人たちの酒に混ぜたのは、悲しみも怒りも消し、あらゆる災いを忘れさせる薬でした。それを飲めば、父母が死んでも、目の前で兄弟や息子が殺されても、涙を流さずにいられる、と詩は書いています (4.220-226)。ゼウスが第24歌で忘れさせるのは「息子たちや兄弟の殺害」でした。ヘレネの薬が飲んだ者に忘れさせるのと、同じものです。前半では薬が個人にもたらしたものを、終幕では神が薬なしに、決定として共同体に置く。
そして、この詩で人を忘れさせようとする力は、いつも甘い姿で現れます。ロトスの実は蜜のように甘く、食べた仲間は帰郷を忘れてその地に留まろうとします (9.94-97)。キルケが蜜を混ぜた飲み物に入れた薬は、故郷を忘れさせると同時に、仲間を豚に変えます (10.233-240)。カリュプソは「柔らかく甘い言葉で彼を魅了し、イタケを忘れさせようと」します (1.56-57)。忘れることは癒しであり、だからこそ危険なのです。この詩の主人公は、その甘さを拒みつづけることで帰り着く男です。カリュプソの島で七年間、浜に座って泣き続けたのは、忘れなかったからにほかなりません (5.151-158)。
歌についても、同じ両面があります。イタケの館で歌い手ペミオスがトロイアからの悲惨な帰還を歌うと、ペネロペイアはその歌をやめるよう頼みます。歌が心を蝕み、夫の記憶を呼び覚ますからです (1.337-344)。パイアケス人の宮廷では、トロイアの歌を聴いて泣く客を見た王アルキノオスが、こう口にします。「それを神々が仕立て、人々に破滅を紡いだのだ。後の世に生まれる者たちにも、歌があるようにと」(8.579-580)。歌は記憶を保つ。ですが記憶は、当事者にとっては痛みになりえます。
忘却は甘く、癒し、そして何かを消す。この線で読むと、第24歌の結末は一貫しています。忘れないことで帰った男の物語が、人々に忘れさせることで閉じられる。ただし終幕の忘却に甘さはありません。誘惑ではなく、神の決定です。原典において忘却は、最後には秩序を回復するための神の道具になります。
忘却の許可——それを拒む男
映画は、この道具を使いません。理由は、災いの原因をどこに置くかにあります。
原典は、原因を毎回はっきりと置きます。しかもオデュッセウス以外に。第1歌の神々の会議で、ゼウスが説明するのです。ポセイドンがこの男に怒り続けているのは、彼がキュクロプスの目を潰したからだ、と (1.68-75)。仲間の全滅については、序歌の時点で語り手が断言しています。彼ら自身の愚行によって滅んだのだ、禁じられた太陽神の牛を食べたのだから、と (1.6-9)。
そこで使われる ἀτασθαλίη(アタスタリエー、愚行)という語が、詩の終わりで二度反響します。一度目は先に見た、求婚者たちを討ち終えた彼の言葉です (22.413-416)。二度目は、遺族たちの集会です。訴えの声が上がったその場で、老人ハリテルセスが立ち上がり、これはあなたがた自身の不始末だ、息子たちの無分別を止めなかったではないか、と反論します (24.455-458)。同じ一語が、仲間の死と求婚者の死という二つの大量死について、いずれも彼を免罪している。しかも最後の一度は、町の長老の見解として出てきます。
免責は、覚えていなくてよい、という許可としても機能します。序歌はこう言い添えていました。彼は仲間たちを救えなかった、切に望みながらも、と (1.6)。彼の本心まで詩が証言するなら、彼がその死を負い目として抱え続ける理由はありません。原因を彼以外に置くたび、詩は彼から重荷を降ろしている。第24歌で遺族にもたらされる忘却は、その仕上げにあたります。彼を最後に解放するのは、他人が忘れることでした。
映画がこの理屈を使うのは一度だけで、しかも言わせる相手が違います。太陽神の島トリナキアで、女神アテナが彼にそれを差し出すのです。彼らの自業自得ではないか、と。彼は拒みます。この場面が映画のアテナにとって何を意味するかは、『オデュッセイア』のアテナ――原典と映画はどう違うのか?で扱いました。
免責を拒むだけではありません。映画は、神々の存在を曖昧にすることで、そもそも原因を確定させることをやめている。その違いは、弓の試練の場面に端的に現れます。原典の彼は弓を張ったあと弦を弾き、それは燕の声のように美しく鳴りました (21.410-411)。映画もここまでは同じです。違うのは、そのすぐ後です。ゼウスが大きく雷鳴を轟かせ、徴を示した。そして耐え抜いてきたオデュッセウスは喜んだ、と続きます (21.413-415)。原典の弦の音には、神の返事が来る。映画の弦の音に、この応答はありません。
応答のない世界で、彼は自分の業を自分で決めるしかなくなります。映画には、繰り返し口にされる言い伝えがあります。海から来る者が文明を滅ぼす、というものです。イスマロスを略奪した直後、彼らは現地の人々に問われます。お前たちが、その海から来る男たちなのか、と。ずっと後の妻への告白の場面で、オデュッセウスはこれを認めます。そのようにして、彼は罪をその身に引き受けるのです。
原典のオデュッセウスは、処罰を宣言し、穢れを祓い、神に怨恨を消してもらって王に戻る。映画のオデュッセウスは、災いの責任を自分に引き受ける。引き受けた以上、正当な処罰をした王という立場も、神が消してくれる怨恨も、彼にはありません。免責を拒んだ男には、罪を消してくれる神がいない。王として島に残らないという結末は、ここから来ています。
二つの歌——消す歌と、伝える歌
原典が神の側に置いた忘却を、映画は人間の側に置き直しました。ただし、道具としてではなく、危険として。西へ行く船の上で彼自身が言います。罪は忘れられ、そして繰り返される、と。原典の忘却は報復を止めるために働き、止めたところで終わりました。映画の忘却は、誰にも依らずに起き、何も終わらせません。忘れて、また同じことをする。
それに対して映画が置くのは、歌です。文字は消えても歌は残る、と映画は言います。線文字が失われ、暗黒時代を挟んで、やがてホメロスが現れる。この映画自身が存在できる条件への言及であると同時に、彼が最後に選ぶものの説明にもなっています。映画は冒頭で楽人に木馬の栄光を歌わせ、最後にその木馬を燃やします。讃える歌は焼かれ、残るのは、彼が妻に語った罪の告白です。
ここで、原典の館で最後に鳴った歌を思い出してください。殺害を婚礼に見せかけるための、偽りの歌でした (23.131-136)。原典の歌は、起きたことを覆い隠すために鳴る。映画で残るのは、起きたことを起きたとおりに伝える証言です。忘れれば繰り返すのだから、忘れないための仕掛けを残す。原典で神が担っていた「忘却によって終わらせる」役を、映画は人間の「記憶に残す」結末に置き換えました。
原典もまた、記憶の徴を知らないわけではありません。酔って屋根から落ちて死んだ部下エルペノルは、死者の国でオデュッセウスに頼みます。自分のために塚を築き、その上に、生きているとき仲間と漕いだ櫂を突き立ててくれ、後の世の人々が自分のことを知るように、と (11.74-78)。彼はそのとおりにします (12.13-15)。死者を忘れないための徴を、この詩も立てている。それでもなお、詩は最後に忘却を選びます。
原典には、帰郷の後の旅も予告されています。死者の国で、予言者テイレシアスが告げるのです。櫂を担いで海を知らない人々の地まで行き、そこで櫂を地面に突き立て、海神ポセイドンに犠牲を捧げ、それから家へ帰れ。そうすれば穏やかな死が訪れる、豊かな老いのうちに、と (11.121-137)。原典ですら、再度の旅を用意している。ただしそれは、神と和解し、家へ帰るための旅です。
映画の旅は、その逆を向いています。出立の前に、イタケを見るのは最後だとオデュッセウス自身が語ります。向かう先は西、太陽の沈む方角、彼の言葉では「まだ見ぬ世界」です。その言葉は、実は映画の最初に出てきていました。トロイアへの出征を嫌がるペネロペイアが、西へ行こうと言うのです。逃げていく太陽を追って、その先には世界がある、と。二十年以上あとに、夫が同じ言葉で船を出します。戦争から逃れるための行き先だったものが、帰る場所を失った男の行き先になっている。ただし、その船には妻が乗っています。戦争の前に選ばなかった人生を、戦争の後に二人で選び直しているとも読めます。死者を忘れないための旅とも、新しい世界を見るための旅とも、映画はどちらとも言い切りません。
消す歌と、伝える歌。原典と映画は、最後に鳴る歌の役目が違います。
誰が覚えているのか
違いを一言でまとめれば、こうなります。原典の結末は、神が忘れさせることで秩序を元に戻す結末です。殺害は処罰として宣言され、穢れは祓われ、怨恨は神が消し、彼は王に戻る。旅の予告さえ、帰ってくるためのものでした。映画の結末は、人が忘れないことを選ぶ結末です。彼は自分を災いの原因と認め、王座を手放し、忘れないための言葉を残して、まだ見ぬ世界への旅に出る。原典では結末を神が置き、映画では誰も置かない。代わりに人間が覚えている。
ただし、罪を覚えていることが解決になるとまでは映画も言っていません。ここからは推測です。映画の漂流には、アイオロスの島とパイアケス人の島という、客人をもてなす土地が出てきません。掟の働かない海からやってきた男は、告白の場面で、「ゼウスの掟破り」は疫病のように広まると語り、求婚者を討った後に「もろい人間の絆を絶った」と述べます。そして彼が去ったあとのギリシアには、暗黒時代が待っています。記憶を選んだ男が外へ出ていくこの結末は、掟破りが世界へ広がっていく図にも見えます。
それでも、映画が原典をどう読んだかは明らかです。原典は神と人間が共に動かす世界で、災いの原因も、終わらせる力も、その両方にまたがっていました。映画はそれを人間の側へ引き寄せました。原因は自分にある、と彼が認め、終わらせるのも自分たちだ、と言葉に託す。責任も意志も人間に帰したとき、忘却は恵みではなく危険に変わり、記憶が唯一の抵抗になる。映画の結末は、その読みの一貫した結果です。
古代にも、この読みに近づいた人がいました。プラトンです。『国家』の最後に置かれた死後の物語で、オデュッセウスの魂は次の生を選ぶ番になり、名誉ある生ではなく、誰にも顧みられない私人の静かな生を選びます。理由は「かつての労苦の記憶によって」功名心が癒えていたからだ、とプラトンは書いています (Plato Republic 10.620c-d)。覚えていることが、王であることを手放させる。映画のオデュッセウスがした選択に、これほど近い古代の記述はありません。
原典の最後に鳴る歌は、殺害を隠すための歌でした。そして最後に神が置くのは、忘却でした。映画の最後に残るのは、起きたことを伝えるための言葉です。神が人々から記憶を消して終わる詩と、人が誰にも消させないために歌を残して終わる映画。原典の言葉を直接たどってみたい方は、Humanitext Antiqua で原典に問いかけてみてください。
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