映画『オデュッセイア』を目にしたとき、主人が不在の館に陣取り、酒を飲み肉を食らい尽くす求婚者たちの姿に違和感を覚えるかもしれません。なぜ、家主の留守に乗じて、他人が勝手に上がり込み、これほど傍若無人に振る舞えるのでしょうか。現代の感覚では、招かれてもいない家に居着いて飲み食いを続ける厚かましい居候にしか見えません。しかもその数は一人や二人ではありません。テレマコスが数え上げると、百人を超える男たちがイタケと近隣の島々から集まってきているのです (Homer Odyssey 16.245-253)。
古代ギリシアには、見知らぬ旅人を迎えてもてなす習わしがありました。クセニアと呼ばれる客と主人の結びつきで、その後ろ盾とされたのが、かのゼウス神のひとつの姿、客人を守る神ゼウス・クセニオスです。ここでは、叙事詩『オデュッセイア』に描かれる「おもてなし」を通じて、求婚者たちの振る舞いについて考えてみます。館の扉口、豚飼いの小屋、巨人の洞窟など、作中様々な場面で行われる歓待を比べてみると、館に居座り続ける求婚者たちの姿が、そこからどれだけ離れた場所にあるかが見えてきます。
扉口に立つ客と「歓待の手順」
『オデュッセイア』の冒頭、オデュッセウスの館では、王妃ペネロペイアへの求婚者たちが屠った牛の皮の上に座って遊戯に興じ、召使いたちにワインと肉を運ばせていました (Homer Odyssey 1.106-112)。その騒がしい館の扉口に、テレマコスには見知らぬ旅人に見える人物が青銅の槍を手にして立っています (1.103-105)。
求婚者たちのただ中で意気消沈していた若き息子テレマコスは、見知らぬ客人が扉の前に長く立っていることに気づくと、心の中で恥じ入り、まっすぐに扉口へと歩み寄りました (Homer Odyssey 1.113-120)。
ここから先を、詩は詳細に描写していきます。テレマコスは客の右手を取り、その手から青銅の槍を受け取ります (Homer Odyssey 1.121)。槍を立派な槍立てへと運び、父オデュッセウスの槍が何本も並ぶ場所に立てかけました (1.127-129)。それから客を求婚者たちの喧騒から離れた、美しい敷物が敷かれた椅子へ案内し、自身もその隣に座ります (1.130-135)。金の水差しから銀の洗面器へ水を注いで客の手を洗わせ、磨かれた食卓にパンや多様な肉、金の杯を惜しみなく並べさせました (1.136-143)。
迎え入れた瞬間に彼が告げるのは、次の言葉です。
χαῖρε, ξεῖνε, παρʼ ἄμμι φιλήσεαι· αὐτὰρ ἔπειτα δείπνου πασσάμενος μυθήσεαι ὅττεό σε χρή.
「ようこそ、客人よ、われらのもとで歓迎いたしましょう。 お食事ののち、ご用件をお話しください。」
(Homer Odyssey 1.123–124)
テレマコスが客に素性を尋ねるのは、客が食事を終え、歌い手が竪琴を奏で始めてからのことです。彼は客の頭にそっと顔を寄せ、周囲に聞こえないよう小声で「あなたはどこの誰なのか、どんな船で来たのか」と初めて問いかけました (1.156-177)。ここでは素性を尋ねるより先に、訪問者を客としてもてなすという行為が来ています。
豚を屠る奴隷と、客を送り出す王
この順序を踏むのは、テレマコスのような王侯だけではありません。
20年ぶりに故郷イタケ島へ戻ったオデュッセウスは、みすぼらしい老人の姿となって忠実な豚飼いエウマイオスの小屋を訪れます。猛犬に襲われそうになった見知らぬ老人を、エウマイオスは小石を投げて救い、自らの粗末な小屋へと招き入れました (Homer Odyssey 14.29-48)。そして小枝を敷き、その上に野生の山羊の毛皮を広げて座らせます (14.49-51)。相手が誰であるかは、まだ何も分かっていません。
エウマイオスは「たとえあなたより見すぼらしい者が来たとしても、客を粗末に扱うことは許されない。客も物乞いも、みなゼウスのもとから来るのだから」と語ります (Homer Odyssey 14.56-58)。彼は豚2頭を屠って串焼きにし、大麦をまぶして熱い串のまま差し出し、ツタの木杯に甘いワインを注ぎました (14.73-78)。夕食には5年ものの丸々と肥えた豚を屠り、神々へ捧げ物をしたうえで、最上の背肉を丸ごと客に与えて敬意を表しています (14.418-438)。
この豚飼いにとって、客を迎えることは、自分の評判と、そしてゼウスとの関係に関わることでした。客はオデュッセウスの帰還を予言したうえで、もし外れたら自分を殺すように申し出ます (Homer Odyssey 14.391-400)。これに対し、エウマイオスは皮肉を返します。
ξεῖνʼ, οὕτω γάρ κέν μοι ἐϋκλείη τʼ ἀρετή τε εἴη ἐπʼ ἀνθρώπους ἅμα τʼ αὐτίκα καὶ μετέπειτα, ὅς σʼ ἐπεὶ ἐς κλισίην ἄγαγον καὶ ξείνια δῶκα, αὖτις δὲ κτείναιμι φίλον τʼ ἀπὸ θυμὸν ἑλοίμην· πρόφρων κεν δὴ ἔπειτα Δία Κρονίωνα λιτοίμην.
「お客さん、なるほどそうすれば、さぞ私の名声と徳とが 今もこの後も人々の間に行き渡ることでしょうよ。 小屋に案内してもてなしておいて、 殺して大切な命を奪うだなんてしようものならね。 それでもって喜んでクロノスの子ゼウスに祈ることでしょうな。」
(Homer Odyssey 14.402–406)
豚飼いによる真摯なもてなしの描写は、Humanitext Reader で第14歌の原文と対訳 を直接確認できます。
歓待は客人をもてなすことだけでは完結しません。第15歌でスパルタの王メネラオスは、故郷へ帰ろうとするテレマコスに、「客がそこにいるあいだは親しくもてなし、去ろうとするなら送り出さねばならない」と告げます (Homer Odyssey 15.74)。メネラオスはテレマコスを無理に引き止めず、銀の混酒器を運び出して贈り (15.113-120)、妻ヘレネは美しい長衣を持たせて、快く旅立ちを見送りました (15.123-130)。
この詩の中で歓待とは、客をいつまでも館に留め置くことではありません。滞在しているあいだはもてなし、去るときには送り出すところまでが、一続きになっています。
歓待が成り立たない場面
「迎える→もてなす→送り出す」というこの流れは、それを反転させる者たちの描写によって、いっそう輪郭がはっきりします。
第9歌でオデュッセウスたちが上陸した島に、一つ目の巨人ポリュペモスの洞窟がありました。中にはチーズや子羊が整然と並んでおり、オデュッセウスは主人が戻って客人への贈り物を与えてくれることを期待して待ちます (Homer Odyssey 9.218-229)。しかし戻ってきた怪物は、巨大な岩で入口を塞ぎ (9.240-243)、火を焚いて人間たちの姿を見つけるなり、こう口を開きました。
ὦ ξεῖνοι, τίνες ἐστέ; πόθεν πλεῖθʼ ὑγρὰ κέλευθα; ἦ τι κατὰ πρῆξιν ἦ μαψιδίως ἀλάλησθε, οἷά τε ληιστῆρες, ὑπεὶρ ἅλα, τοί τʼ ἀλόωνται ψυχὰς παρθέμενοι κακὸν ἀλλοδαποῖσι φέροντες;
「見知らぬ者ども、お前たちは誰だ。どこから海の道を渡ってきた。 何か用でもあるのか、それとも当てもなくさまよっているのか、 海を越えてさまよう海賊どものように ――己の命を賭け、異国の者らに災いを運ぶあの者どものように。」
(Homer Odyssey 9.252–255)
テレマコスが食事のあとまで伏せておいた問いが、ここでは最初に来ています。しかも「お前たちは誰だ」に続くのは、略奪者ではないのかという疑いです。オデュッセウスが「客人と嘆願者を見守る神ゼウスを敬え」と訴えても (9.269-271)、巨人は意に介さず、仲間2人を掴んで子犬のように床に叩きつけ、骨も内臓も食い尽くしました (9.288-293)。問いが先に来て、もてなしは来ません。
反転には、もう一つの形があります。客として迎えられた側が、その関係を裏切る場合です。『イリアス』に語られるトロイアの王子パリス(アレクサンドロス)は、力づくで客を拒んだ怪物ではありません。メネラオスの館に客として迎えられ、手厚いもてなしを受けた立場でありながら、妻ヘレネと館の財宝を奪い去りました。第3歌でパリスとの一騎打ちに臨むメネラオスは、ゼウスに向かって、「もてなしの親愛を与えてくれた主人に悪事を働くことを、後世に生まれる人々までもが恐れおののくように」と祈ります (Homer Iliad 3.351-354)。ポリュペモスとパリス。この二つの場面で描かれる関係のねじれは、主人が客を拒むことだけではありません。客として迎えられた側が裏切ったときにも、歓待は成立していません。
歓待から外れる求婚者たち
ここまで見てきた場面を物差しにすると、オデュッセウスの館に居座る求婚者たちは、どのあたりに置かれるでしょうか。
彼らはポリュペモスのように、客を拒んで食らうわけではありません。パリスのように、妻と財宝を伴って去るわけでもありません。求婚者たちについて詩が繰り返し書くのは、飲み、食べ、屠っている場面のほうです。豚飼いエウマイオスによれば、主人が本土に持っていた牛、羊、豚、山羊の各12の群れ、そしてイタケ島にある11の山羊の群れという莫大な財産が、彼らの宴会によって食い潰されていました (Homer Odyssey 14.96-108)。エウマイオスが育てる豚も、都度もっとも肥えたものが運ばれていきます (14.16-20)。
第1歌でテレマコスは、求婚者たちは「他人の暮らしの糧を、代価も払わず食い潰している」と、扉口に立つ客人へ訴えます (Homer Odyssey 1.160)。その客人は、詩の聞き手にはすでに明かされている通り、タポス人の指導者メンテスの姿を借りた女神アテナでした (1.102-105)。もっともテレマコス自身は、客人が鳥のように飛び去る別れ際になって、ようやく相手は神であったかと思い当たります (1.319-323)。テレマコスは求婚者たちに対し、館から出て自分たちの財産で宴会をせよ、さもなくばゼウスに滅びを祈ると公然と宣告しました (1.374-380)。館の主が客に告げる言葉としては、テレマコスが扉口の旅人にかけた「ようこそ、われらのもとで歓迎いたしましょう。」とは、ずいぶん隔たっています。
テレマコスが迎えた客には、槍を預かる手があり、席があり、食事があり、そして最後に名を尋ねられる瞬間がありました。メネラオスの客には、贈り物を持たされて送り出される日がありました。求婚者たちの場合、詩が書き続けているのは、その途中の食卓だけです。
なぜテレマコスやペネロペイアが彼らを即座に追い出せなかったのか。その答えを、歓待の作法だけから引き出すことはできません。そもそも求婚者の数は、彼らの手に負えないほど多い。ただ、彼らの振る舞いが、この詩に何度も描かれる本来の客のあり方から遠く離れていることは、場面を並べてみれば見えてきます。
『オデュッセイア』を鑑賞するとき、誰かが「客」として迎えられる場面に出会ったら、そこで何が、どのように行われているかに、ぜひ注目してみてください。作中の人物たちが交わすもてなしの言葉をさらに詳しく調べたいときは、Humanitext Antiqua で原典に問いかけてみてください。
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