『オデュッセイア』のアテナ――原典と映画はどう違うのか?

映画のアテナはなぜ主人公を救わず、責めもしないのか。原典で主人公と知恵を分かち合い、帰還の要所で介入する女神の姿と突き合わせると、映画の演出の狙いが見えてきます。

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著者:鈴木 祐希(名古屋大学 博士後期課程)
イタケの浜辺で、なぜ姿を見せてくれなかったのかとアテナに詰め寄るオデュッセウス

この記事には、映画『オデュッセイア』の物語の核心に触れる記述が含まれます。

映画視聴前の予習記事としては、客の名を尋ねるのは食事のあと:『オデュッセイア』の「ゼウスの掟」『オデュッセイア』:「ノスタルジー」とは帰れない苦しみだったをご覧ください

古代ギリシアの英雄叙事詩『オデュッセイア』において、知恵の女神アテナは主人公オデュッセウスと息子テレマコスを導き、守る存在として描かれます。しかし映画のアテナには、異なる印象を受けます。過酷な放浪を続けるオデュッセウスが窮地に陥っても、奇跡で救ったり、敵を打ち倒す力を与えたりはしません。ただ時折その姿を現し、彼の行く末を眺めているだけに見えるのです。

この女神は、物語の世界に実在する神なのか、それともトロイア戦争の記憶に苦しむ主人公の罪悪感が生み出した姿なのか。映画は、その正体を明かしません。ただ、どちらかに決めなくても考えられる問いがあります。なぜ彼女は彼を救わないのか。そして、彼女が差し出す言葉を、なぜ彼は拒むのでしょうか。

原典である叙事詩の詩行を丁寧に辿ってみると、映画の演出の妙が鮮やかに浮かび上がってきます。映画が描いたアテナの不可解な振る舞いは、原典の骨組みを裏返したものであると言えるでしょう。古代の叙事詩と現代の映画を交互に照らし合わせながら、『オデュッセイア』におけるアテナ女神の像について考えてみます。

神々が姿を現す叙事詩、神の姿が定かでない映画

原典『オデュッセイア』では、冒頭から神々が姿を現します。詩神ムーサへの呼びかけに続き、物語は神々の会議の場面へ移ります。そこでオデュッセウスの帰郷を認める決定がなされます (Homer Odyssey 1.27-95)。物語は、帰ろうとするオデュッセウスの意志と、彼を帰そうとする神々の意図とが絡み合って進んでいきます。

原典のアテナは、変装して人間の前に現れるだけでなく、人間の意思決定そのものを形作っています。息子テレマコスの旅立ちを見てみましょう。父の旧友メンテスの姿で館を訪れた女神は、船を整えて父の消息を尋ねに行け、まずピュロスへ、次にスパルタへ、と行先まで指示します (1.279-285)。次に老友メントルの姿で船と仲間は自分が用意すると約束し (2.287-295)、テレマコス自身の姿に変わって仲間を集め、船を借り (2.383-387)、求婚者たちを眠らせ (2.393-398)、風を送って船を出します (2.420-421)。ピュロスを去るとき彼女は海鷲となって飛び去り、王ネストルはそのときはじめてテレマコスの同行者が女神だったと悟ります (3.371-379)。そこに神がいることに人間は常に遅れて気づく。しかし旅の発案も、手段も、出航の時機も、すべて神の手になるものでした。

映画でも、テレマコスは父を探しに旅立ちます。しかし彼を送り出すのは女神ではありません。それは彼自身の決意であり、母の意に逆らってまで出航します。師のメントルは生身の人間として描かれ、神殿での待ち伏せに遭い命を落とします。テレマコスはメントルに「アテナの眼」を見出しますが、彼は神ではありません。このように、神が人に化けるという信仰は映画でも保たれ、これが「ゼウスの掟」の根拠にもなっています。しかし人々が神々を信じていることと、その実在を確かめられることとは別です。オデュッセウスの前に現れるアテナも、神なのか幻影なのかが明かされない点で、原典の女神とは異なります。

それでも、登場人物たちは出来事の中に神々の働きを感じ取っています。怪物ポリュペモスの呪いや、トリナキア島(太陽神の島)を出航したあとに船団を襲う凄まじい嵐は、人知を超えた力の存在を感じさせます。彼らの信仰の中に神々は存在する。しかし、その姿を直接確かめることはできません。

神々の意図が分からないことに、映画のオデュッセウスはカリュプソの島で苛立ちを露わにします。「なぜ神々は我々に分かる言葉で話せないのか」と訴える彼に対し、姿を現したアテナはこう返します。「雷が分からぬ者がいるか。火は。子の笑みは。豊かな実りは」。

この返答は、神の言葉を世界の出来事の中に見いだすよう促しています。雷も火も、子の笑みも実りも、神の言葉として受け取れるというのです。ただしここには、原典とは異なる現代的な仕掛けがあります。原典の聴衆や読者は、アテナがゼウスと交渉する神々の会議の場面を知っており、神が独立した意志を持つ存在であることを疑いません。映画の観客が見せられるのは、自然現象の背後にある何かを「見よ」と言われる場面だけです。監督ノーランは、当時の人々が自然や周囲の人間の中に神の証拠を見たであろう仕方で神を描いたと語っています(TIME誌、2026年7月24日)。神の存在は否定されないまま、観客には出来事を象徴として読む回路が差し出されます。この問答は、後にトリナキア島で「痛みが、血が、死が分からぬ者がいるか」という形で繰り返されることになります。

神の力を直接には描かないというこの方針は、アテナにおいて最も徹底しています。原典のアテナは神々の会議で帰還を発議し (1.44-95)、テレマコスの旅を仕立て、浜辺で求婚者を討つ策を練り (13.372-428)、オデュッセウスを変身させ (13.429-438)、最後の戦いではアイギスを掲げます (22.297-298)。映画のアテナは船も用意せず、変装も施さず、戦いに加勢することもありません。彼女がするのは、思い出せ、帰結を見よ、と問いかけることだけです。原典の女神が担っていた働きを、映画のアテナはほとんど何も行わないのです。

「決して助けてくれない女神」という印象は、ここから生まれます。ところが原典と突き合わせると、意外な事実が分かります。原典のオデュッセウスもまた、彼女に同じ不満をぶつけているのです。20年の歳月を経て故郷イタケの浜辺に辿り着いた直後、彼は目の前に現れたアテナに向かって、トロイアにいた頃は味方でいてくれたのに、船出したのちには、苦難に遭っていたあいだ一度もあなたの姿を見なかったではないかと強く詰め寄ります (13.316-321)。この苦情に対して、原典のアテナは次のように答えます。

αὐτὰρ ἐγὼ τὸ μὲν οὔ ποτʼ ἀπίστεον, ἀλλʼ ἐνὶ θυμῷ
ᾔδεʼ, ὃ νοστήσεις ὀλέσας ἄπο πάντας ἑταίρους·
ἀλλά τοι οὐκ ἐθέλησα Ποσειδάωνι μάχεσθαι
πατροκασιγνήτῳ, ὅς τοι κότον ἔνθετο θυμῷ,
χωόμενος ὅτι οἱ υἱὸν φίλον ἐξαλάωσας.

「だが私は、決してそのことを疑っていたわけではない。お前が仲間をすべて失って帰還することは、心のうちで知っていた。しかし私は、父の兄弟であるポセイドンと争いたくはなかったのだ。彼はお前がその愛しい息子の目を奪ったことに怒り、心に恨みを抱いていたのだから」

(Homer Odyssey 13.339–343)

原典の女神は、確かに長いあいだ彼のもとを離れて不在でした。しかし彼女には、不在であった理由がありました。父ゼウスの兄弟であるポセイドンとの直接の衝突を避けるという、神々の秩序に基づく明確な弁明が存在したのです。ここでアテナが名指しているポセイドンの激しい怨恨の由来は、映画でも描かれた一つ目巨人ポリュペモスとの戦闘です。

映画は、この関係を反転させています。映画のアテナは、放浪の要所で彼の前に姿を現します。しかし、なぜ苦難から救わないのかという理由は語りません。原典では「姿を見せず、その理由を語った」女神が、映画では「姿を見せても、救わない理由は語らない」存在になっています。助けてくれないという印象は、彼女が目の前にいるのに救いの手を差し伸べないという、この隔たりから生まれるのでしょう。

神々に関する描写の反転をさらに際立たせるのが、カリュプソです。原典の叙事詩において、主人公の放浪生活のなかで最も長い年月をともに過ごし、言葉を交わし続ける女神はアテナではなくニンフのカリュプソです。原典のカリュプソはオデュッセウスを愛し、老いることも死ぬこともない不死の神にしてやると約束しますが、彼は浜辺に座って涙を流しながら、死すべき人間の妻のもとへ帰ることを選んでその申し出を固辞します (5.135-136, 208-220)。映画でもまた、カリュプソは二人で永遠に幸せに過ごそうと、オデュッセウスに伝えます。「永遠なのは神だけだ」と返すオデュッセウスに対し、彼女は返答をしません。カリュプソの神性も曖昧に保たれているのです。

神話的な物語であった原典と比較して、映画『オデュッセイア』は人間の物語として描かれているといえるかもしれません。

原典のアテナは共犯者

ここで、原典において彼女とオデュッセウスが本来どのような絆で結ばれていたのかを見てみましょう。それは映画に登場する異様なアテナを読み解く手掛かりにもなります。二者の関係が最も鮮明に描かれるのは、先ほど引いた第13歌の苦言の場面から、少し前に戻ったイタケの浜辺です。

長い眠りから覚め、霧に包まれた故郷の海岸で途方に暮れるオデュッセウスの前に、アテナは若い羊飼いの姿をとって現れます (13.221-225)。相手が誰とも知らぬオデュッセウスは、警戒を怠らず、自らの素性を隠して長大な嘘の物語を語り始めます。自分はクレタ島で人を殺して逃げてきた亡命者だと語る彼を見て、アテナは怒るどころか、楽しげに微笑んで彼の手を優しく撫で、気品ある女性の姿になります (13.287-289)。そして、知恵者である彼に向かって親しみを込めて語りかけるのです。

ἀλλʼ ἄγε, μηκέτι ταῦτα λεγώμεθα, εἰδότες ἄμφω
κέρδεʼ, ἐπεὶ σὺ μέν ἐσσι βροτῶν ὄχʼ ἄριστος ἁπάντων
βουλῇ καὶ μύθοισιν, ἐγὼ δʼ ἐν πᾶσι θεοῖσι
μήτι τε κλέομαι καὶ κέρδεσιν·

「さあ、その話はもうやめにしよう。お互い狡知を心得た者同士だ。お前はあらゆる人間のうちで最も知恵が回り弁が立つ。私は神々の中で知略と狡知で名が通っているのだ。」

(Homer Odyssey 13.296–299)

原典における二人は、欺きを共有する共犯者です。人間の中で最も悪知恵に長けた男と、神々の中で最も知恵と策略に優れた女神。二人は似た者同士として互いを認め合い、偽りと企みを分かち合うことで深く結びついていました。

この共犯関係の頂点にあるのが、トロイア戦争の終結です。アカイア軍を勝利に導いたあの巨大な木馬は、オデュッセウスの企図のもとで大工のエペイオスがアテナの知恵の助けを借りて建造したものでした (8.492-495)。トロイアを内側から食い破る策略そのものが、アテナとオデュッセウスの合作だったのです。『小イリアス』という叙事詩によれば、オデュッセウスはトロイアの聖域から都市を守護するアテナの神像パラディオンを盗み出しています (Little Iliad arg. 4. West)。彼はアテナの象徴を奪い、味方につけ、女神とともに都市を罠に嵌めました。

では、アテナを怒らせた神殿の冒涜のほうは、どうでしょうか。この話にオデュッセウスは主犯として現れません。関連する伝承では、小アイアスと呼ばれる別の武将がアテナに救いを乞う女性カッサンドラを凌辱し、女神の怒りを呼んだとされています (Euripides Trojan Women 69-71; Apollodorus Epitome 5.22)。しかも女神の怒りは、冒涜した個人ではなく軍全体に向けられます。原典では、ギリシア軍の多くの者を襲った「輝く眼の娘(アテナ)の激しい怒り」が語られます (Homer Odyssey 3.135)。エウリピデスの悲劇『トロイアの女たち』でも、神殿を汚されたアテナはポセイドンと手を結び、帰航するギリシアの艦隊を嵐で打ち砕こうとします (Euripides Trojan Women 75-97)。

『オデュッセイア』第5歌には、アテナへの罪と帰途の遭難を結びつける説明もあります。カリュプソの島を訪れたヘルメスは、オデュッセウスがここへ流れ着いた経緯を次のように語ります。

οἴκαδʼ· ἀτὰρ ἐν νόστῳ Ἀθηναίην ἀλίτοντο,
ἥ σφιν ἐπῶρσʼ ἄνεμόν τε κακὸν καὶ κύματα μακρά.
ἔνθʼ ἄλλοι μὲν πάντες ἀπέφθιθεν ἐσθλοὶ ἑταῖροι,
τὸν δʼ ἄρα δεῦρʼ ἄνεμός τε φέρων καὶ κῦμα πέλασσε.

「[トロイアを滅ぼして]家路についた。だがその帰途で、彼らはアテナに対して罪を犯し、女神は彼らに向けて悪しき風と大波を巻き起こした。そこで他の優れた仲間たちは皆死に絶え、その男だけを風と波とがここへ運んできたのだ」

(Homer Odyssey 5.108–111)

ここで罪を犯したとされるのは「彼ら」です。オデュッセウスが災いを受けたことと、彼自身が神殿冒涜の実行者であることは、同じではありません。アテナに守られる英雄も、軍全体を襲う災いの中に置かれているのです。

原典では、木馬の計略と神殿の冒涜は、別の人物による行いでした。映画はこの二つを一つの場面に重ねます。アテナへの捧げものと偽って木馬を送り込んだ軍は、トロイアの人々を殺し、女神の神像をも破壊します。神殿で命を奪われる巫女の姿と、アテナ像の首が床へ転がり落ちる映像は、一続きの場面として映し出されます。この並びによって、生身の女性の死と神像の破壊が重なって見えます。そして略奪の後、オデュッセウスの前に現れるアテナは、その時殺された巫女の顔と姿をしています。原典で女神と共に企んだ策と、女神を怒らせた冒涜とが、映画では同じ夜の同じ場所で、同じ男の案から生まれたものになります。

叙事詩ではアテナと知恵を分かち合い、その怒りの主犯ではなかったオデュッセウスが、映画では、自分の案が招いた破壊と殺害の責任を自ら引き受ける者として描かれます。実行するのは兵たちですが、告白の場面で彼は「一人の男の考え、一人の男の策」と語り、責任を一人で背負おうとします。女神との関係は、策略をともにする親密さから、彼自身の加害の記憶と切り離せないものへと変わっています。

この対照から、映画のアテナの奇妙さが見えてきます。叙事詩や悲劇では軍を滅ぼす力を振るう女神が、映画では殺された女の姿で、オデュッセウスの前に立っています。その姿は彼に加害の記憶を突きつけるはずです。それでも、彼女は非難の言葉を口にしません。

自分を弁護する声を拒む男

映画のアテナが彼を責めないのだとすれば、彼女は彼に何を差し出しているのでしょうか。この謎を解く鍵は、原典『オデュッセイア』の巻頭、わずか数行の序歌の中に埋め込まれています。

ἀλλʼ οὐδʼ ὣς ἑτάρους ἐρρύσατο, ἱέμενός περ·
αὐτῶν γὰρ σφετέρῃσιν ἀτασθαλίῃσιν ὄλοντο,
νήπιοι, οἳ κατὰ βοῦς Ὑπερίονος Ἠελίοιο
ἤσθιον· αὐτὰρ ὁ τοῖσιν ἀφείλετο νόστιμον ἦμαρ.

「だがそれでも、彼は仲間たちを救うことはできなかった、切に望みながらも。ほかならぬ彼ら自身の分別のない所業によって滅び去ったのだから。愚か者たち、ヒュペリオンの子なる太陽神ヘリオスの牛を食らったのだ。そして神は彼らから、帰郷の日を奪い去った。」

(Homer Odyssey 1.6–9)

この冒頭の構文を、注意深く見つめる必要があります。詩人はここで「どれほど望んだとしても(ἱέμενός περ)」という強い譲歩の句を置き、それに続けて「彼ら自身のおぞましい愚行によって(αὐτῶν σφετέρῃσιν ἀτασθαλίῃσιν)」という言葉を重ねています。叙事詩全体を支配するこの導入部は、オデュッセウスのための強力な免責論理として書かれています。部下たちが全滅したのは隊長である彼の責任ではなく、彼ら自身の愚行のゆえである。しかも詩人は、その愚行の内容を「太陽神の牛を食らったこと」という具体的な一件に特定して釘を刺しています。

人間自身の愚行に災いの原因を求める見方は、続く神々の会議にも現れます。ゼウスは、人間は災いを神々のせいにするが、実際には自らの愚行によって定め以上の苦難を招いているのだと語ります (Homer Odyssey 1.32-34)。この発言はオデュッセウス個人への弁護ではありませんが、冒頭の序歌と同じく、災いを招いた者自身の責任に目を向けています。

そして映画は、まさにこの序歌の論理そのものを、アテナの言葉として蘇らせます。

トリナキア島で、飢えに耐えかねた仲間たちが禁断の牛を屠り、その肉を食べた後、アテナはオデュッセウスの前に現れます。そして仲間の死は、お前の失敗ではなく彼ら自身の失敗ではないのか、と問いかけます。これは序歌と同じ論理です。彼らは自らの愚行によって滅びた。お前は望んでも救えなかった。原典の語り手が主人公のために書いた免責を、映画は女神の口から語らせます。

しかしオデュッセウスは退けます。自分が率いた、自分がここへ連れてきた、と。アテナの最後の問いは鋭い。ではお前を率いたのは誰か。なぜ自分を神々の上に置くのか。なぜ責任を独り占めしたがるのか。なぜ家に帰りたくないのか。彼女の言葉は慰めというより、免責を拒むこと自体を問い返しています。原典が用意した弁護を、映画の主人公は自らの手で退け、その拒絶が帰郷を遠ざけている。映画のアテナが差し出すのは赦しではなく、このジレンマです。

ここで、冒頭で保留にした問い——アテナは実在の神なのか、それとも主人公の心理的投影なのか——に戻ることができます。この問いに決着をつける必要がない理由は、いまや明白です。

もし彼女が実在の女神であるならば、神が差し出した免責を人間が拒んでいることになります。もし彼女がオデュッセウスの内面の投影であるならば、「お前のせいではない」という自己弁護の声を、彼自身が退けていることになります。どちらの解釈でも、彼が免責を受け入れられないという点は変わりません。彼が抗っているのは、自分を責任から解放する声そのものなのです。

イタケの薄暗がりで

言葉による免責を拒んだオデュッセウスは、イタケの館で、アテナと別の仕方で向き合います。

先ほど見た叙事詩の説明では、アテナへの罪が帰途の遭難を招いていました。一方、映画の彼女の問いかけを彼の苦しみへの応答として読むなら、焦点は神の処罰から、免責を受け入れられない人間の苦しみへと移ります。オデュッセウスの放浪には、帰還を妨げる外的な困難だけでなく、自分が救われることを認められない罪悪感も重ねられているように思われます。

オデュッセウスは見知らぬ老いた客の姿のまま、妻ペネロペイアの前で、トロイアでの暴虐と殺戮の記憶を語り始めます。夫として名乗らず、無名の老人として語るその言葉は、自らの行いを正当化する弁明よりも、罪の告白として響きます。そのとき彼の瞳から、涙が零れ落ちます。

すると、その告白を見届けるかのように、傍らに佇むアテナの瞳からも、静かに涙が溢れ出します。二人は無言のまま、そっと手を重ね合わせます。

かつてトリナキア島で差し出された、彼らの死はお前の失敗ではないという見方を、彼は激しく拒絶しました。しかしイタケの薄暗がりの中で、殺された巫女の姿をした女神が音もなく流した涙を、彼は受け入れます。

彼女は最後まで「お前を赦す」とは言いません。二人が涙を流して手を重ねる場面には、罪の有無を決める言葉がありません。それでもオデュッセウスは、そこで初めて慰めを受け入れたように見えます。罪を否定する言葉は拒んだ彼が、その痛みに寄り添う存在には手を伸ばすのです。

動かせない徴と、持ち運べる徴

この告白の先にある夫婦の再会にも、アテナは関わっています。

原典では、これ以上待たずに弓の試練を求婚者たちに課すことを、ペネロペイアは物乞い姿の夫に向かって自ら宣言します (19.570-581)。そして翌朝、それを実行に移す瞬間、詩人は「輝く眼の女神アテナが彼女の心に置いた」と語ります (21.1-4)。人間の決断と神の働きかけが重なって出来事を動かす、この叙事詩に特有の語り方です。映画は、この神の層を取り去ります。罪の告白を聞いた妻が、その場で待つことをやめ、明日夫を選ぶ、求婚者たちを集めよ、試練を成し遂げた者と結婚する、と告げる。神が心に置いたはずのものが、オデュッセウスの言葉を受け止めた妻の意志へと置き換えられています。母の意に逆らって船を出した息子の旅立ちと同じ置き換えが、ここでも起きています。

夫婦が互いを確かめる手掛かりも、原典と映画では異なります。第23歌のペネロペイアは、求婚者たちを討ち果たした夫を前にしても慎重な態度を崩さず、乳母に寝室から寝台を運び出すよう命じて夫の反応を試します (23.177-180)。オデュッセウスは怒り、寝台を動かせるはずがないと答えます。大地に根を張るオリーブの幹を削って寝台の柱に仕立て、その周囲に寝室を築いたのは、彼自身だったからです (23.183-204)。この寝台には、夫婦が互いを確かめる「大きな徴」、つまり確かな証があります (23.188, 202)。ここで二人を結びつけるのは、動かせない寝台そのものだけでなく、その作りについて共有する記憶です。

対照的に、映画の再会を支えるのは、どこへでも持ち運べる小さなアテナ像です。出征の際にペネロペイアが手渡したこの像を、オデュッセウスはトロイアでの戦争や海での放浪、カリュプソの島での日々を経ても手放しません。カリュプソのもとで曖昧な記憶を辿る彼に妻を思い出させ、求婚者たちを討った後には、彼の手から妻の手へと返されます。かつてトロイアの神殿で彼が砕いた像も、海を越えて妻とのつながりを保ち続けた小像も、同じアテナをかたどっています。女神は、彼にとって戦争の記憶と夫婦の絆の両方に結びつく存在なのです。アテナが妻との絆を支える女神でもあったからこそ、オデュッセウスはアテナへの罪に深くとらわれていたのではないでしょうか。告白を経て小像を返す流れは、その罪に向き合いながら妻との関係を取り戻す過程として読めます。

神の働きかけの跡に、人間の告白を置く

原典のアテナは、神々の会議で帰還を発議し、息子の旅を仕立て、求婚者を討つ策を巡らし、戦いに加勢する女神でした。序歌の語り手は、仲間の死は彼ら自身の愚行によると宣言して、主人公を弁護しました。映画は、神の働きかけがあった場所の一つ一つに、人間の決断と応答を置き直します。息子は母に逆らって自分で旅立ち、妻は告白を聞いて自分で待つのをやめる。残された唯一の女神がすることは、原典の語り手が用意した免責を、主人公の前に差し出すことだけです。そして映画の主人公は、それを拒みます。神が実在するなら神の弁護を、内なる声なら自己弁護を、彼は退けている。映画のアテナが助けてくれないように見えるのは、助ける仕事が人間の側へ移され、彼女には問うことしか残されていないからです。

この置き換えには代価があります。原典の人間は、どれほど知恵に優れていても、最後は神の手の内にあります。帰還を許すのはゼウスの決定であり (1.76-79)、求婚者殺害の後の血の報復を止め、和解を結ばせるのも神々です (24.472-486, 529-548)。仲間の死を「彼ら自身の愚行」と定めるのも、人間ではなく詩人と神です。人間は自分の行いのすべてを引き受けることはできないし、引き受けなくてよい。原典にあったそうした限界の感覚は、映画では後景に退きます。興味深いのは、映画自身がその代価に気づいているように見えることです。トリナキアでアテナが投げかけるのは、まさに「なぜ自分を神々の上に置くのか」という問いでした。すべての責任を独りで負おうとする男は、免責を拒む謙虚な人間であると同時に、神の座に自分を据えた人間でもある。映画が最後に彼に与えるのが赦しではなく追放であることは、その両義性と無関係ではないでしょう。

ただし、その拒絶を映画が肯定しているとは限りません。夫婦の再会が果たされても、女神との涙をそのまま被害者との和解と呼べるかは、別の問いです。彼を慰める女神は、トロイアで殺された巫女の姿をしています。アテナの言葉や涙を、その女性自身の意思と受け取ってよいのでしょうか。彼にしか見えないという演出には、彼女が彼自身の願望の投影ではないかという疑いも残ります。被害者の姿をした存在が、加害者である男の傍らで涙を流す。その光景は、罪に向き合う人間への慰めにも、自らを救いたいという加害者の願望にも見えます。彼が慰めを受け入れたことと、被害者が彼を赦したこととの間には、なお隔たりが残っています。

映画は、その隔たりを一つのカットで示します。回想から現在へ戻ったとき、女神の手を握っていたはずの彼の手は、空を握っているのです。次にこの映画を観るときには、アテナの言葉に彼がどう応じ、涙の場面で何が変わるのかに注目してみてください。二人が重ねる手は、慰めを受け入れる仕草ではあっても、罪が消えたことを示す証ではありません。

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