9月11日の公開に先立つ先行上映で、クリストファー・ノーラン監督の『オデュッセイア』を、Humanitextのメンバー4人と観てきました。
3時間近い大作を観終えて、まずは昼食へ。食べながら、映画のあの場面は原典ではどう書かれていたか、という話になり、1時間以上話し込みました。
映画の中身には触れません。代わりに、その席で話題に上がったことを三つ書いておきます。
鎧の巨人は、原典ではどんな姿だったのか
映画には、鎧をまとった巨人たちが現れます。あれはライストリュゴネス人だろう、という点では昼食の席ですぐに意見が揃いました。話題になったのはその先で、原典の彼らはあんな姿だったのか、ということでした。
原典が彼らの姿に割く行は、ごくわずかです。偵察に出た三人が館で出会う王妃は「山の頂ほど」の大きさで (Homer Odyssey 10.112-113)、夫の王アンティパテスは仲間の一人をつかんで食事の支度にかかります (10.116)。集まってくる住民たちは「人間ではなく巨人(ギガス)のよう」とだけ語られ (10.120)、岩の上から「人の手に余る大石」を投げて船を砕き、男たちを魚のように突き刺して持ち去ります (10.121-124)。原典が与えるのは体の大きさと投げる石と人食いの習いくらいで、鎧はもちろん、顔立ちも衣服も描かれません。鎧を着ていたかどうか以前に、比べる材料がほとんどないのです。
セイレーンの歌を、オデュッセウスは何と聞いたのか
原典のセイレーンは、甘い歌声だけで誘うのではありません。「広いトロイアでアルゴス人とトロイア人が神々の意志によって被ったすべてを、私たちは知っている。豊かな大地の上で起こるすべてのことも」(12.189-191)。彼女たちが差し出すのは知識です。
ただし、原典に記されている歌はこの8行だけです。オデュッセウスは続きを聞きたくなり、眉で合図して縄を解けと命じますが、仲間は彼をさらにきつく縛り、船は通り過ぎます (12.192-200)。彼女たちが「知っている」と言ったその中身は、一行も歌われない。この場面を語っているのは、パイエケス人の宮廷で自分の旅を回想するオデュッセウス自身です。彼が聞いたのは知識そのものではなく、知識の約束でした。映画のオデュッセウスは、何を聞いたのか。
なぜイタケに着いても物語は終わらないのか
原典は全24歌のうち、後半の12歌を帰郷後に費やします。オデュッセウスがイタケの浜に降り立つのは第13歌。そこから先は放浪ではなく、館を取り戻すまでの物語です。
しかも再会の夜、オデュッセウスは妻に「まだすべての試練の果てに至ったわけではない」と告げ、もう一つの旅を予告します (23.248-250)。帰り着くことと帰郷を果たすこととは、原典では同じではありません。映画がどこを終わりにしたかは、ここでは書かないでおきます。

ほかにも、神々をどこに置くのか、オデュッセウスは何を背負っているのか、といった話も出ました。こちらは鈴木祐希さんの記事に譲ります。
観る前に原典の側を知っておきたい方には、鈴木祐希さんが書いた2本があります。
原文と対訳はHumanitext Readerで読めます。上に挙げた箇所は、ライストリュゴネス人(第10歌)、セイレーンの歌(第12歌)、再会の夜(第23歌)から開けます。映画のあとに、ぜひ原典を開いてみてください。
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