デウカリオンの洪水と石から生まれた新人類:古代ギリシャの再生神話

全てが水に覆われた世界で、たった二人だけが生き残った。古代ギリシャのデウカリオンとピュラの物語は、ゼウスが引き起こした大洪水を乗り越え、石を投げて新たな人類を創造した壮大な再生の神話です。

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著者:Humanitext Antiqua
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デウカリオンとピュラが背後に石を投げ、そこから新しい人間が生まれてくる様子を描いた神話の情景

デウカリオンの洪水と石から生まれた新人類:古代ギリシャの再生神話

もし世界が終わり、あなただけが生き残ったとしたら、どうしますか?これは、古代ギリシャ神話が問いかける根源的なテーマの一つです。神々の怒りによって引き起こされた大洪水を生き延びた一組の夫婦が、謎めいた神託に従い、驚くべき方法で人類を再生させた物語を見ていきましょう。

ゼウスの怒りと大洪水

物語は、神々の王ゼウスが地上に住む「青銅の時代」の人間を滅ぼすことを決めるところから始まります (Apollodorus Library 1.7.2)。彼らの不敬と暴力に満ちた生き様に耐えかねたゼウスは、全人類を地上から一掃することを決意しました。

ゼウスの怒りは、天からの豪雨となって現れます。しかし、彼の怒りはそれだけでは収まりませんでした。海の神ポセイドンもまた、兄弟であるゼウスに力を貸し、三叉の矛で大地を打ちました。すると大地は震え、地下水脈が解き放たれ、川という川が堰を切ったように氾濫し、野原へと流れ込みました (Ovid Metamorphoses 1.274-286)。

exspatiata ruunt per apertos flumina campos cumque satis arbusta simul pecudesque virosque tectaque cumque suis rapiunt penetralia sacris. […] Iamque mare et tellus nullum discrimen habebant: omnia pontus erant, deerant quoque litora ponto.

“野放図に流れ出した川は開けた野原を駆け巡り、 作物もろとも木々、家畜、人間、 家屋とその神聖な祭具までもさらう。 […] もはや海と陸の区別はなく、 すべてが海だった。その海に岸辺すらなかった。”

(Ovid Metamorphoses 1.285–292)

かつて丘だった場所は孤島となり、舟を漕ぐ者は、少し前まで自分が耕していた畑の上を進みました。魚は榆の木のてっぺんに引っかかり、狼は羊の群れの中で泳ぎ、イルカは森の樫の木に体をぶつけました (Ovid Metamorphoses 1.293-304)。やがて山々の頂さえも新たな波に打たれ、地上のほとんどの生き物は水に呑み込まれ、生き残った者も食料がなくなり飢えによって命を落としました (Ovid Metamorphoses 1.309-312)。ギリシャのほとんどの地域が水没し、テッサリア地方の山々は裂け、コリントス地峡とペロポネソス半島以外のすべてが水の下に沈んだのです (Apollodorus Library 1.7.2)。

箱舟の漂流とパルナッソス山への漂着

しかし、この破滅的な洪水の中にも、希望は残されていました。人類の創造に関わった神プロメテウスは、ゼウスの計画を予見し、息子のデウカリオンに警告を与えます。デウカリオンは父の助言に従い、大きな箱舟を造り、必要な物資を積み込むと、妻のピュラと共に乗り込みました (Apollodorus Library 1.7.2)。ピュラは、プロメテウスの弟エピメテウスと、神々が創った最初の女性パンドラの娘でした。

デウカリオンとピュラを乗せた箱舟は、9日9晩もの間、荒れ狂う海を漂流しました (Apollodorus Library 1.7.2)。やがて、彼らの舟はパルナッソス山の頂に漂着します。この山だけが、広大な水面から姿を現していたのです (Ovid Metamorphoses 1.316-319)。デウカリオンほど正義を愛し、ピュラほど神々を敬う者はいませんでした (Ovid Metamorphoses 1.322-323)。彼らの敬虔な姿を見たゼウスは、北風に命じて雨雲を吹き払わせ、天と地を再び引き離しました。ポセイドンもまた矛を収め、トリトンに命じて法螺貝を吹き鳴らさせると、荒れ狂っていた水は徐々に引いていきました (Ovid Metamorphoses 1.324-342)。

長い日々の後、ようやく大地が姿を現しました。しかし、二人が目にしたのは、静寂に支配された荒涼たる世界でした (Ovid Metamorphoses 1.348-350)。デウカリオンは涙ながらにピュラに語りかけます。「おお、妻よ、生き残ったただ一人の女性よ。今やこの地にいるのは我々二人だけだ。残りはすべて海が所有してしまった。」人類が自分たち二人だけになってしまったことに絶望した彼らは、神々の助けを求めることにしました (Ovid Metamorphoses 1.351-368)。

テミスの神託と人類の再生

二人は、かつて神託を授けていた女神テミスの神殿へと向かいました。神殿は苔に覆われ、祭壇の火は消え果てていましたが、彼らはその場で地にひれ伏し、冷たい石に口づけをして祈りを捧げました (Ovid Metamorphoses 1.371-376)。「女神テミスよ、もし神々の怒りが正しき祈りによって和らぐのであれば、我らの一族の滅びをいかにして回復すべきかお示しください。この沈みゆく世界に救いの手をお与えください」と (Ovid Metamorphoses 1.377-380)。

彼らの祈りに心を動かされた女神は、謎めいた神託を授けました。

Discedite templo et velate caput cinctasque resolvite vestes ossaque post tergum magnae iactate parentis!.

“神殿を去り、 頭を覆い、衣の帯を解き、 偉大なる母の骨を背後へ投げよ!。”

(Ovid Metamorphoses 1.381–383)

この言葉を聞き、二人は長い間呆然としました。特にピュラは、母の骨を投げるという冒涜的な行為を恐れ、神の命令に従うことを拒みました (Ovid Metamorphoses 1.384-387)。しかし、デウカリオンは神託の真意を深く考え抜きます。そして彼は、神託が邪悪なことを命じるはずがないと確信し、ピュラに自らの解釈を語りました。「偉大なる母とは大地のことだ。そして、その体の中にある石こそが『骨』に違いない。我々はその石を背後に投げるよう命じられたのだ」と (Ovid Metamorphoses 1.391-394)。

石から生まれる新しい民

夫の解釈に希望を見出したものの、二人の心にはまだ疑いが残っていました。しかし、試してみることに害はないと考え、彼らは神託の通りに頭を覆い、衣の帯を解き、足元の石を拾い上げては背後へと投げ始めました (Ovid Metamorphoses 1.395-399)。

すると、信じられない光景が広がります。投げられた石は、その硬さを失い、次第に柔らかくなっていきました。そして、形を成し始め、不完全ながらも人間の姿へと変わっていったのです。それはまるで、彫刻家が大理石から像を彫り出す途中のようでした (Ovid Metamorphoses 1.400-406)。石の湿った土の部分は肉体となり、硬く曲げられない部分は骨に変わりました。(Ovid Metamorphoses 1.407-410)。

デウカリオンが投げた石は男となり、ピュラが投げた石は女となりました (Apollodorus Library 1.7.2)。こうして、神々の力によって、滅び去ったはずの人類は再び地上に満ちたのです。この神話に由来して、ギリシャ語で「民」を意味する「ラオイ(λαοί)」は、「石」を意味する「ラアス(λᾶας)」から名付けられたと伝えられています (Apollodorus Library 1.7.2)。

この石から生まれた新しい人類は、「困難に耐える頑強な種族」であり、その出自こそが彼らの強靭さの証となったのです (Ovid Metamorphoses 1.414-415)。デウカリオンとピュラの物語は、破滅の淵から立ち上がり、知恵と敬虔さをもって未来を切り拓く、人類の不屈の精神を象徴する壮大な再生の神話として、今日まで語り継がれています。


(編集協力:鈴木 祐希)

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