“ὁ κόσμος ἀλλοίωσις, ὁ βίος ὑπόληψις.”
「世界は変化、人生は捉え方。」
—— Marcus Aurelius Meditations, 4.3.4
【解説】
寄せては返す波のように、世界は絶えず姿を変えていきますが、私たちの人生は一体何によって決まるのでしょうか。ローマ皇帝マルクス・アウレリウスは、この短い対句のうちにストア派の思想の核心を凝縮しました。彼によれば、外界で何が起ころうと、それ自体は私たちの魂に触れることはありません。問題は、私たちがその出来事をどう「捉えるか」という内なる判断にあるのです。この言葉は、絶え間ない変化の世界で不動の心を保つ「生きる技術」とは、自らの認識を正しく方向づけることだと教えてくれます。人生の舵を取るのは、外的な出来事ではなく、私たち自身の捉え方なのです。
“Τοῦτο ἔχει ἡ τελειότης τοῦ ἤθους, τὸ πᾶσαν ἡμέραν ὡς τελευταίαν διεξάγειν.”
「これが完成された性格というものだ。毎日を最後の日として過ごすことだ。」
—— Marcus Aurelius Meditations, 7.69.1
【解説】
もし今日が人生最後の日だとしたら、あなたは何をしますか。この鋭い問いかけは、ローマ皇帝マルクス・アウレリウスが自らに課した精神的な訓練の一つでした。彼は、完成された性格(ἤθος)を持つ人間は、一日一日を人生の集大成として、真剣に、しかし焦らず騒がず過ごすと考えたのです。これは単なる終末論的な思想ではなく、現在という瞬間に全ての価値を集約させるための「生きる技術」と言えるでしょう。未来への不安や過去への後悔から解放され、今この瞬間の義務を十全に果たすこと。そこにこそ、充実した生の鍵があると彼は信じていたのです。
“Κάλλιστα διαζῆν, δύναμις αὕτη ἐν τῇ ψυχῇ, ἐὰν πρὸς τὰ ἀδιάφορά τις ἀδιαφορῇ.”
「最も美しく生きること、その力は魂の中にある。もし人が、どうでもよいことに対して無関心でいられるならば。」
—— Marcus Aurelius Meditations, 11.16.1
【解説】
美しい生き方と、そうでない生き方を分けるものは何でしょうか。ローマ皇帝マルクス・アウレリウスは、その答えは私たちの外側ではなく、魂の内にこそあると説きます。彼が言う「どうでもよいこと(ἀδιάφορα)」とは、富や健康、評判といった、私たちの力では完全にコントロールできない事柄を指します。こうした外部のことに心を乱されず、無関心でいる強さを持つこと。それこそが、最も美しく生きるための力なのだと彼は考えました。この言葉は、何に価値を置き、何を手放すかを見極めることこそが、卓越した「生きる技術」の要諦であることを示唆しています。
“μακρὰν ἀπʼ αὐτοῦ οὐ μόνον τὰς χεῖρας, ἀλλὰ πολὺ πρότερον τὴν ὄρεξιν.”
「それから遠ざけるのは手だけでなく、それよりずっと先に欲望をだ。」
—— Epictetus Discourses, 4.1.77
【解説】
欲しいものを手に入れられないとき、私たちの心は乱れます。では、どうすれば心の平穏を保てるのでしょうか。ストア派の哲学者エピクテトスは、問題は対象そのものではなく、それに向かう我々の「欲望(ὄρεξις)」にあると喝破します。彼が言う「それ」とは、健康や富など、我々の力ではどうにもならない事柄です。そうしたものに手を伸ばさないだけでなく、そもそも欲望を抱かないこと。この言葉は、心の動きそのものを制御するという、より根本的な「生きる技術」を教えてくれます。外的なものを追い求めるのをやめたとき、人は初めて内的な自由に到達できるのです。
“ἄμεινον τῇ ἀληθείᾳ συγχωρήσαντα τὴν δόξαν νικᾶν ἢ τῇ δόξῃ συγχωρήσαντα πρὸς τῆς ἀληθείας ἡττᾶσθαι.”
「真理に譲ることで評判に打ち勝つほうが、評判に譲って真理に打ち負かされるよりも良い。」
—— Epictetus Gnomology, 28
【解説】
真理と評判、二つの道が分かれるとき、どちらを選ぶべきでしょうか。ストア派の哲学者エピクテトスは、この見事な対句をもって、選ぶべき道を明確に指し示します。人々の評判を得るために真理を曲げることは、結局のところ真理そのものによって敗北を喫することになる、と彼は説きます。一方で、たとえ一時的に評判を失うことになっても真理の側に立つならば、それは最終的に世評という虚しいものに対する勝利となるのです。この言葉は、目先の利益や他人の評価に惑わされず、普遍的な真理を指針とすることこそが、賢明な「生きる技術」であると教えてくれます。
“Vivere tota vita discendum est et […] tota vita discendum est mori.”
「生きることは一生かけて学ばねばならない。そして、死ぬことも一生かけて学ばねばならないのだ。」
—— Seneca De Brevitate Vitae, 7.3
【解説】
人はいつ「生きる」ことを学ぶのでしょうか。ローマの哲学者セネカは、時間を浪費する人々を批判し、真に「生きる」ことの難しさを説く中でこの言葉を記しました。彼は、多くの人が日々の雑事に追われ、生きるための技術を習得しないまま一生を終えると考えたのです。この印象的な対句は、生きること、そしてその一部である死ぬことさえも、意識的に習得すべき技術であると力強く訴えかけます。これは単なる心構えではなく、絶え間ない学びと実践を要求する「技術」として人生を捉える、ストア派的な視点を鮮やかに示していると言えるでしょう。私たちの毎日は、この壮大な学びの一瞬を刻んでいるのかもしれません。
“Nihil differamus. Cotidie cum vita paria faciamus.”
「何も先延ばしにするな。毎日、人生と帳尻を合わせよう。」
—— Seneca Ad Lucilium Epistulae Morales, 101.7
【解説】
「明日やろう」という言葉は、私たちを甘やかす蜜なのでしょうか、それとも毒なのでしょうか。ローマの哲学者セネカは、未来の不確かさを説き、先延ばしにする習慣を厳しく戒めます。彼は、人生を帳簿に喩え、一日が終わるごとにその日の貸し借りを清算し、帳尻を合わせるべきだと考えました。これは、毎日を完結した一つの人生とみなし、悔いを残さず十全に生きるための「生きる技術」です。この力強い二つの命令文は、不確かな未来に期待するのではなく、今この瞬間を確実に自分のものとすることの重要性を教えてくれます。今日という一日を完成させることが、充実した一生につながるのです。
“Αἰδοῦ σαυτὸν καὶ ἄλλον οὐκ αἰσχυνθήσῃ.”
「汝自身を敬え、そうすれば他人を恥じることはないだろう。」
—— Theophrastus Fragmenta varia, 155
【解説】
人前で恥ずかしい思いをしないためには、どうすればよいのでしょうか。アリストテレスの弟子テオプラストスは、その答えは他人の目ではなく、自分自身の内にこそあると説きます。この簡潔な格言が意味するのは、自らに恥じない行動を常に心がけていれば、結果として他人の前で赤面するような事態にはならない、ということです。つまり、最も厳格な監視者は、自分自身の良心であるべきなのです。この言葉は、他者の評価に振り回されることなく、内なる基準に従って生きることの重要性を教えてくれます。それは、確固たる自己を確立するという、普遍的な「生きる技術」の基礎と言えるでしょう。
“ἀλλ’ ἔστιν εἰπεῖν ζῶντα τοῦτʼ οὐ ποιήσω, οὐ ψεύσομαι, οὐ ῥᾳδιουργήσω.”
「生きている者が『私はこれをしない』と言うことはできる。私は嘘をつかない、悪事を働かない、と。」
—— Plutarch On Tranquillity of Mind, 19
【解説】
「こんな目に遭うとは思わなかった」と嘆くことはできても、「こんなことはしない」と誓うことはできるのでしょうか。著述家プルタルコスは、詩人メナンドロスの「何が起きるか分からない」という諦念に満ちた言葉に対し、力強い反論を試みます。確かに、我々は運命によって何が起きるかをコントロールすることはできません。しかし、その状況に対して自分がどう行動するか、つまり「何をしないか」は、完全に我々の意志の力にかかっているのです。この言葉は、変えられない外的な運命と、自分で決められる内的な選択とを明確に区別します。自らの道徳的決意を固めること、それこそが不確かな世界を生きる上での揺るぎない羅針盤となる「生きる技術」なのです。
“μανικὸν γάρ ἐστι τοῖς ἀπολλυμένοις ἀνιᾶσθαι μὴ χαίρειν δὲ τοῖς σῳζομένοις.”
「なぜなら、失われたもののために苦しみ、残されたものを喜ばないのは狂気の沙汰だからだ。」
—— Plutarch On Tranquillity of Mind, 8
【解説】
グラスに半分入った水を「もう半分しかない」と嘆きますか、それとも「まだ半分ある」と喜びますか。著述家プルタルコスは、財産を失って嘆く友人を前にした哲学者アリスティッポスの逸話を紹介します。失った一つのもののために苦しみ、まだ手元に残っている多くのものを喜ばないのは、まるで狂気だというのです。この言葉は、私たちの視点をどこに置くかという、心の習慣の重要性を教えてくれます。欠けているものではなく、満たされているものに目を向けること。それは、人生の幸福度を大きく左右する、極めて実践的な「生きる技術」と言えるでしょう。幸福は、持っているものの量ではなく、それをどう見るかによって決まるのです。
(編集協力:中山 朋美、内海 継叶)
静寂の極致:文豪たちが辿り着いた死生観
命の終わりを「露と花」の無常観に見出した鴨長明、そして死が日常と化した極限の現実を描いた原民喜。文豪たちは、外的な苦悩が渦巻く世界の中で、いかに魂を解放し、静けさを獲得しようとしたのでしょうか。生への執着を肯定する三木清の逆説、運命を潔く引き取る宮沢賢治の受容を通し、その究極の境地を探ります。
正義という名の欺瞞:近代文学が暴く倫理の矛盾
法の裁きが真の救済をもたらさず、また人道的な赦しと衝突するとき、正義は深い矛盾を孕みます。「国家のため」という大義は、労働者の命や住民の土地を奪う暴力の盾となり、法の論理を歪めました。近代の文豪たちは、法と正義というこの二律背反の狭間で、私たち自身の倫理の境界線を鋭く問いかけます。
誇りが持つ二つの顔:魂を磨く力と、心を蝕む毒
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風土を歩く思索:八雲、烏水、独歩が捉えた風景の永遠と呼吸
凍てつく夜道の足音や、光に溶け、まどろむ林。歩く者の五感を通して、その土地固有の「風土」は鮮やかな詩となります。八雲の幽玄な情景、烏水が探る人間味の深さ、そして独歩が武蔵野に見出した永遠の静寂。日常を離れ、風景の奥に潜むその土地ならではの「永遠の呼吸」に耳を澄ませてみましょう。