「富貴は人生の目的でない、人生の方法なり」
—— 新渡戸稲造『自警録』
【解説】
富や名声は、人生のゴールでしょうか、それともただの道具でしょうか。新渡戸は、富や地位を得ること自体が人生の目的になってしまう危険性を警告します。それらはあくまで、人がその人格を発揮し、より善く生きるための「方法」や「補助物」に過ぎないというのです。この視点に立てば、実業や金儲けといった物質的な営みにも、精神的な価値を見出すことができます。大切なのは、どれだけ富を蓄えても、人間としての本質や倫理観を見失わないこと。富を目的化せず、自らの人格を高めるための手段として使いこなすことこそ、真に豊かな生き方だと思われます。
「道すなわち道徳はその
—— 新渡戸稲造『自警録』
【解説】
天高くにある星も、その光は私たちの足元を照らします。新渡戸は、道徳や仁義という言葉が、ともすれば高尚で縁遠いものに聞こえる風潮に懸念を示します。しかし、彼によれば道徳の本質は、その理念(性)は高くとも、その実践(用)は日々の卑近な言行にこそあるのです。その源流(来たるところ)は古の賢人の教えのように遠くても、その影響(及ぼすところ)は誰もが実践できるほど身近で広い。道徳とは、専門家だけが語る難しい学問ではなく、数多の人々が踏み固めてきた平坦な道であり、私たちの心に既に備わっている良知に従うことだと教えてくれます。
「愛とは単に老牛が
—— 新渡戸稲造『自警録』
【解説】
愛とは、ただ優しく、ただ甘やかすことだけを指すのでしょうか。新渡戸は、キリスト教の説く「柔和」の徳が、ややもすれば柔弱に流れる危険性を指摘します。そして、真の愛や仁愛は、親牛が子牛をただ可愛がるような、無条件の溺愛とは異なると断言します。時には不正に対して憤り、断固として立ち向かう気骨もまた、愛の重要な側面なのです。この言葉は、信仰や倫理における「愛」が、単なる感情的なものではなく、善悪を判断し、正義を貫く強さをも内包する、より深く厳しいものであることを示唆しています。真の愛には、優しさと共に、確固たる背骨が必要なのかもしれません。
「人格で人を
—— 新渡戸稲造『人格を認知せざる国民』
【解説】
私たちは、その人の「中身」と「外側」、どちらを見て判断しているでしょうか。新渡戸は、当時の日本社会が、官等や学問、成功といった「附属」物で人を評価し、その人自身の内なる「人格」を見ていないと嘆きます。この反復を込めた一句は、表面的な肩書や財産ではなく、人間そのものの価値を見つめる「赤裸々の交際」が失われていることへの痛烈な批判です。これは、他者をどう見るかという倫理的な問いかけに他なりません。信仰や精神的な対話が難しいと感じる社会の根底には、人をその本質ではなく、着飾った衣服で判断してしまう風潮があるのだと、筆者は鋭く指摘しているのです。
「友たるに恥じぬ人格と人に愛せらるるだけの価値を有することも必要である。」
—— 新渡戸稲造『イエスキリストの友誼』
【解説】
良い友が欲しいと願う前に、自らは良い友たり得ているだろうか。新渡戸は、高い次元の友誼を論じる中で、他者に求めるだけでなく、自分自身を省みることの重要性を説きます。真の友を得るためには、まず自分が友人としてふさわしい、恥ずかしくない人格を築き上げなければならない。そして、他者から自然と愛されるような内面的な価値を持つ人間になる努力もまた不可欠なのです。これは、人間関係を一方的な要求ではなく、相互的な倫理の場として捉える視点です。天父の意志を理解するような高潔な友を求めるならば、自らもまたその高みに近づこうと努めるべきだという、謙虚で誠実な心構えを示しています。
「近代文化の大禍害を癒やし得る最上の良薬はこの無報酬の念でなくてはならぬ。」
—— 鈴木大拙『僧堂教育論』
【解説】
すべての値札を剥がしたとき、そこに何が残るのでしょうか? 現代文明が精神に与えた最も深い傷は、あらゆる事象を金銭で換算してしまう習慣にあると著者は嘆きます。どれほどの財産があるか、いくら寄付したかという数字の多寡で人間の価値を測る風潮は、精神的な豊かさを貧しくさせる一方です。ここにおいて、見返りを求めない「無報酬の念」こそが、傷ついた現代社会を癒やす解毒剤となり得るのでしょう。
「この勿体ないと云う事が宗教の精神である。」
—— 鈴木大拙『僧堂教育論』
【解説】
一滴の水にも宇宙の恵みを感じる心を持っていますか? 禅堂での生活は、手桶のわずかな水で顔を洗い口を漱ぐという、極限までの節約を強いるものでした。しかしそれは単なる倹約ではなく、天から与えられたものを濫用する権利は誰にもないという、厳粛な畏敬の念に基づいています。太陽が善人にも悪人にも等しく降り注ぐように、自然の恵みは無条件に与えられているからこそ、それを「勿体ない」と感じる心に宗教の原点があるのです。この謙虚な感謝の念がなければ、どんなに厳しい修行を積んだとしても、その精神は空虚なままでしょう。
「己の私情をもって自利を祈るがごときは、非倫理なれば迷信である。」
—— 井上円了『迷信と宗教』
【解説】
私たちの「祈り」とは、一体何なのでしょうか。妖怪研究でも知られる哲学者の井上円了は、迷信と宗教を分ける基準として「倫理性」を挙げます。彼によれば、自分の利益だけを願う自己中心的な祈りは、倫理に反する「迷信」に過ぎません。しかし、公明正大な心から発せられる祈り、例えば公の安寧を願うような祈りは、迷信を越えた真の信仰、すなわち「宗教」の域に達すると論じます。この区別は、祈るという行為そのものではなく、その動機や心のあり方が信仰の質を決定するという深い洞察を示しているでしょう。私たちの祈りは、果たしてどちらの領域に属するのか、考えさせられる一節です。
「実験は祈りだよ」
—— 永井隆『この子を残して』
【解説】
科学は未知を解き明かす理性、信仰は未知を敬う心。この二つは、決して相容れないものなのでしょうか。長崎で被爆した放射線科医・永井隆が、我が子に語りかける形で綴ったこの作品には、科学者としての彼の深い信仰観が示されています。彼は、科学の実験とは、ただ現象を分析する作業ではないと説きます。それは、宇宙の創造主が作りたもうた御業の一部を、畏敬の念をもって拝見させていただく行為なのだと。だからこそ、科学者の実験は修道士の祈りと同じであり、謙虚さと慎みがなければならないと語りかけます。この言葉は、科学と信仰を対立するものと見なす見方を覆し、真理の探究という一点において両者が結びつく可能性を示唆しているのです。
「俺は、人間様だからな。そんな、稲荷だなんて、狐に頭を下げて頼むのなんか、真っ平だ。」
—— 佐左木俊郎『或る部落の五つの話』 [平三]
【解説】
神に祈るのが信仰ならば、神に頼らぬと誓うのもまた一つの信念でしょうか。この物語は、ある農村を舞台に、稲荷信仰をめぐる人々の愛憎と悲劇を描き出します。登場人物の一人である平三は、ライバルを呪うために稲荷に祈るよう勧められても、それを頑なに拒絶します。彼は、動物に過ぎない狐に頭を下げて祈ることを潔しとせず、自らの「人間の力」で物事を解決しようとするのです。この台詞は、素朴な信仰が人々の生活に根付く一方で、それに反発する強い自我と人間中心主義的な倫理観が存在したことを示しています。神仏に頼らず己の力で立つことを選んだ男の意地が、信仰とは何かを逆説的に問いかけてくるようです。
(編集協力:井下 遥渚、佐々 桃菜)
日本の季節観:文人たちのまなざし
日本の文人たちは、小説や随筆などの多様な表現形式を通して、移ろいゆく季節や生命の営みに深く向き合ってきました。彼らの繊細な感性と鋭い観察眼は、私たちに自然との対話の扉を開き、日常の風景の中に隠された美と哲学を教えてくれます。
日本の原風景:土地が語る記憶の物語
ハエの羽音に亡き人を重ね、一本足の案山子(かかし)に神様を見る。 日本人にとって不思議な物語は空想ではなく、すぐ隣にある「生活」そのものでした。 海の彼方への憧れや、古びた塚に残る伝説。柳田國男や小泉八雲らが拾い集めた、恐ろしくも優しい「心の原風景」を旅してみませんか。
「理屈」を超えた驚異へ:科学者たちが覗いた美しき深淵
科学は、無機質な計算ではありません。それは人知を超えた自然への畏敬であり、終わりのない美の探求です。雪の結晶に宇宙を見、道端の草に命の猛々しさを感じる————。論理の果てにこそ現れる、圧倒的な「神秘」と対峙した知の冒険者たち。その静謐で熱い魂の記録に触れます。
「私」を叫ぶ魂:近代女性が描く、運命と矜持の物語
女性の人生は、運命への諦念で塗り固められるべきでしょうか。それとも、社会の壁を突き破り、自らの「生」を勝ち取るための戦いでしょうか。一葉が吐いた乾いた自嘲、晶子が愛する者のために放った痛烈な叫び。時代という鎖に抗い、泥にまみれながらも「私」を確立しようとした、彼女たちの魂の叫びに耳を澄ませます。