「福を得んとすれば福を植うるに若くは無い。」
—— 幸田露伴『努力論』
【解説】
幸福とは、ただ待っていれば天から降ってくるものなのでしょうか。幸田露伴は、人類の歴史が祖先による幸福の種蒔き、すなわち「植福」の連続であったと説きます。稲を収穫したければ稲を植えねばならぬように、幸福もまた、自らの手でその源を植え付け、育む努力があって初めて得られるものだと論じているのです。これは農業に限らず、工業や商業といったあらゆる生業に通じる真理でしょう。日々の勤勉な働きは、自分自身や他者の未来に幸福をもたらすための、尊い「植福」の作業に他なりません。この言葉は、労働の価値を再認識させ、日々の営みの中に未来への希望を見出すよう促してくれるようです。
「何に依らず其のことが最善に到達したなら、その人も幸福であるし、又世にも
—— 幸田露伴『努力論』
【解説】
一滴の水も、集まればやがて大河となるように、一つの道を極める営みは社会を豊かにします。露伴は、誰もが壮大な事業を成し遂げる必要はないと語ります。たとえ地道な仕事であっても、その道を一心に追求し、最善の域にまで高めることができたなら、それは個人の幸福に繋がるだけでなく、必ずや世の中への確かな貢献となるのです。この言葉は、職業に貴賤はなく、どんな生業であっても勤勉に励み専門性を極めることの尊さを教えてくれます。大きな目標に気圧されるのではなく、自分の持ち場で最善を尽くすことこそが、社会を支える礎となるのでしょう。
「思ふ可きところを思ひ、爲す可きところを爲さんと決定し、決行するのが、第一着手のところである。」
—— 幸田露伴『努力論』
【解説】
一つの仕事に打ち込んでいるはずなのに、なぜか心が千々に乱れてしまうことはないでしょうか。露伴は、こうした集中できない状態を「散る気」と呼び、その克服法を説きます。それは、今この瞬間に「為すべきこと」と「思うべきこと」を明確に定め、断固として実行することに他なりません。この決意こそが、雑念を払い、精神を一つの対象に注ぎ込むための第一歩となるのです。生業や商いにおいて質の高い成果を生むには、このような精神の鍛錬を通じた勤勉さが不可欠だと、この一節は示唆しているようです。まず心を定め、決然と行動することからすべては始まります。
「天運も
—— 幸田露伴『努力論』
【解説】
成功は自らの努力の賜物か、それとも幸運に恵まれた結果か。露伴は、成功者が人事を語り、失敗者が天命を嘆く世の常を観察し、そのどちらか一方だけが真実なのではなく、両方が存在すると指摘します。私たちの人生や事業は、計り知れない運命の流れの中にありながらも、同時に自らの意志と努力、すなわち「人力」によっても切り拓かれていくものだと考えられるのです。商いや日々の生業において、予期せぬ追い風が吹くこともあれば、逆風に見舞われることもあるでしょう。この言葉は、運の要素を認めつつも、それに甘んじたり絶望したりすることなく、尽くすべき人事を尽くす勤勉さの重要性を教えてくれます。
「唯先天の遺伝、現在の教育に従て、根気能く勉めて迷わぬ者が勝を占めることでしょう。」
—— 福沢諭吉『福翁自伝』
【解説】
大きな志か、地道な努力か、人生の勝敗を分けるのは一体どちらなのでしょう。福沢は、若い頃に学費を稼ぐため按摩を習った経験を振り返り、それは立派な大志からではなく、ただ必要に迫られてのことだったと語ります。彼は、幼い頃の志が一生を決めるとは限らず、生まれ持った性質や受けた教育を土台として、迷わずに根気よく努力し続ける者こそが最終的に成功を収めるのだと述べました。この言葉は、特定の生業や商いを目指すというよりも、どんな状況にあっても務めを果たす「勤勉」という普遍的な美徳の重要性を説いています。目の前の課題に実直に取り組む姿勢が、結果として道を拓くという真理が示されているのです。
「農たらば大農となれ、商たらば大商となれ。」
—— 福沢諭吉『学問のすすめ』
【解説】
どうせやるなら中途半端ではなく、その道の頂点を目指してみませんか。福沢は、学問を志す若者が、目先の生計のために小さな安定に満足してしまう風潮を憂いました。彼は、学問をするなら徹底的に究めるべきであり、それと同様に、農業を営むなら日本一の大農を、商業を営むなら日本一の大商を目指すべきだと力強く説きます。この対句表現は、それぞれの生業において安易な妥協を許さず、勤勉に励み、その分野の第一人者たれという強烈なメッセージを放っています。商いであれ何であれ、志を高く持つことの重要性を教えてくれるのです。粗末な食事に耐えながらも大きな目標を見失わない、明治の若者への熱いエールが聞こえてくるようです。
「ただ学問の
—— 福沢諭吉『学校の説』
【解説】
才能か、努力か。知識の広さや深さを決める、たった一つの要因とは何でしょう。福沢は、漢学と洋学のどちらか一方ではなく、両方を学ぶべきだと主張します。西洋には複数の言語を操る学者が珍しくないことを例に挙げ、日本人にもそれが可能だと説きました。彼は、学問の達成度が狭いか広いかは、その人の才能や環境によるのではなく、ただひたすらに勉めるか、勉めないか、その一点にかかっているのだと断言します。この言葉は、あらゆる生業や商売の基礎となる「勤勉」の精神を力強く肯定するものです。目標達成の可否は、本人の努力次第であるという、自己責任と克己心を尊ぶ福沢の思想が明確に表れています。
「うそつき商ばいの仲人屋もこれ
—— 井原 西鶴, 宮本 百合子『元禄時代小説第一巻「本朝二十不孝」ぬきほ(言文一致訳)』
【解説】
嘘も方便、とは申しますが、嘘を売るのが仕事の人間が真実を語る時、そこにはどんな意味が隠されているのでしょうか。この一節は、夫に先立たれた女性がすぐに再婚相手を探す当時の風潮を嘆く場面に登場します。本来は尼になるべきだとされる中、世の移り変わりを批判する文脈で語られます。口八丁手八丁で縁談をまとめ、時には嘘もつくのが商売であるはずの仲人屋でさえ、この風潮には「さもしい事だ」と本音を漏らした、という皮肉が込められています。ここで仲人業が「うそつき商ばい」と断じられている点は、利益を追求する生業の裏側にある、ある種の胡散臭さや世間の冷ややかな視線を浮き彫りにしているようです。商売人の口からこぼれた真実の言葉が、かえってその職業の本質と、それを超える人間の道徳観を鋭く描き出しているのが興味深いところでしょう。
「金がかたきになる浮世だワ」
—— 井原 西鶴, 宮本 百合子『元禄時代小説第一巻「本朝二十不孝」ぬきほ(言文一致訳)』
【解説】
富は人を幸せにするのか、それとも不幸の種となるのでしょうか。この言葉は、旅の僧が持っていた百両の小判を奪おうとした男が、相手を槍で突き刺した際に発したものです。僧から金を受け取った直後、男はためらわず命まで奪ってしまいます。金さえ手に入ればよいとばかりに非情な行いに及ぶ一方で、その金こそが人を狂わせ、殺し合いにまで至らせる「かたき」なのだと嘆く、矛盾した心情が吐露されています。生業や商いを通じて人々が追い求める「金」が、時として人間の理性を失わせ、悲劇を引き起こす元凶にもなりうるという浮世の真理を、この短い一言は突きつけているかのようです。まさに人の命を奪うその瞬間に、金銭の持つ魔力と虚しさを喝破するこの台詞は、物語全体を貫く因果応報のテーマを象徴していると言えるでしょう。
「
—— 幸田露伴『努力論』
【解説】
私たちの人生は、あらかじめ定められた筋書きの上を歩むだけのものなのでしょうか。幸田露伴は、運命という不可解な力に屈するのではなく、むしろそれを自らの手で支配したいと願うのが人間の本然の感情だと喝破します。そして、その気概があるならば、ためらうことなく前進し、自らの手で未来を築き上げるべきだと力強く訴えるのです。この英雄的な気概は、新たな商いを起こしたり、困難な事業に挑んだりする際に不可欠な精神でしょう。不確実な未来を嘆くのではなく、勤勉と創意工夫によって自らの道を切り拓いていく。それこそが「運命を造る」ということに他なりません。
(編集協力:井下 遥渚、佐々 桃菜)
静寂の極致:文豪たちが辿り着いた死生観
命の終わりを「露と花」の無常観に見出した鴨長明、そして死が日常と化した極限の現実を描いた原民喜。文豪たちは、外的な苦悩が渦巻く世界の中で、いかに魂を解放し、静けさを獲得しようとしたのでしょうか。生への執着を肯定する三木清の逆説、運命を潔く引き取る宮沢賢治の受容を通し、その究極の境地を探ります。
正義という名の欺瞞:近代文学が暴く倫理の矛盾
法の裁きが真の救済をもたらさず、また人道的な赦しと衝突するとき、正義は深い矛盾を孕みます。「国家のため」という大義は、労働者の命や住民の土地を奪う暴力の盾となり、法の論理を歪めました。近代の文豪たちは、法と正義というこの二律背反の狭間で、私たち自身の倫理の境界線を鋭く問いかけます。
誇りが持つ二つの顔:魂を磨く力と、心を蝕む毒
新渡戸稲造は、人に笑われても、自分の中で正しいと思える生き方こそが本物の誇りだと説きました。しかし、菊池寛の「形」へのこだわりや、中島敦の「山月記」が描くように、自尊心は時に心の怪物となってその人を追い詰めます。自分を強くする武器となるのか、それとも自分を滅ぼす毒となるのか。彼らの言葉かを通し、魂の底に潜む自尊心の深淵を覗きましょう。
風土を歩く思索:八雲、烏水、独歩が捉えた風景の永遠と呼吸
凍てつく夜道の足音や、光に溶け、まどろむ林。歩く者の五感を通して、その土地固有の「風土」は鮮やかな詩となります。八雲の幽玄な情景、烏水が探る人間味の深さ、そして独歩が武蔵野に見出した永遠の静寂。日常を離れ、風景の奥に潜むその土地ならではの「永遠の呼吸」に耳を澄ませてみましょう。