「法律は父を捕縛して彼に囚人の衣服を着せる、だがそれで子供の飢餓をとどめる事が出来たか?」
—— ゴールドマン エマ『結婚と恋愛』(伊藤 野枝訳)
【解説】
法の正義は、本当に弱者を救うことができるのでしょうか。本作は、結婚という制度が愛や自由ではなく、経済的な依存と社会的な束縛に基づいていると痛烈に批判する評論です。この一節は、法が罪を犯した父親を罰することはできても、それによって残された子供の飢えという根本的な問題は何一つ解決されない、という厳しい現実を突きつけます。制度的な「正義」の執行が、かえって新たな悲劇を生むことさえあるというのです。これは、形式的な法の適用が、真の救済や人間的な正義の実現には必ずしも繋がらないという、社会制度そのものへの根源的な問いかけと言えるでしょう。
「「国家」のために、労働者は「腹が減り」「タタき殺されて」行った。」
—— 小林多喜二『蟹工船』
【解説】
大義という名の衣をまとった不正義ほど、見えにくいものはないのかもしれません。本作では蟹工船のみならず、北海道開拓における労働者の悲惨な運命も語られます。この一文は、富国強兵や資源開発といった「国家のため」という壮大なスローガンの裏で、名もなき人々が飢え、暴力によって命を落としていく現実を痛烈に告発するものです。ここで描かれるのは、法や人道が「国益」という絶対的な正義の前では無力化され、搾取や殺戮すらもが合理化されてしまう恐ろしい論理です。個人の尊厳は、より大きな目的のための犠牲として、いとも簡単に切り捨てられてしまうのでした。この言葉は、正義を謳う権力が、時として最も非情な暴力装置となりうることを私たちに突きつけます。
「奴、一人位タタキ落せるべよ」
—— 小林多喜二『蟹工船』
【解説】
法の裁きが届かぬとき、人々は自らの手で正義を執行しようとするのでしょうか。行方不明になった仲間は監督に殺されたのだと信じ、残された労働者たちの間で怒りが渦巻く場面で、ある若い漁夫が吐き捨てるように言った言葉です。この荒々しい一言は、公的な正義や法による裁きを一切期待できない極限状況で、人々が「私的制裁」という直接的な手段に傾いていく心理を克明に描いています。船という密室では、監督の権力は絶対であり、労働者の死は容易にもみ消されます。正義が機能しない社会では、報復や復讐といった原始的な感情が唯一の「正義」として立ち現れてくるのかもしれません。この言葉は、正義の不在が、いかに容易に人々の心を暴力へと駆り立てるかを示しています。
「俺達には、俺達しか、味方が無えんだな。」
—— 小林多喜二『蟹工船』
【解説】
信じていた正義の担い手に裏切られたとき、人は何を頼りにすればよいのでしょう。ストライキの首謀者たちが、会社側の要請で現れた帝国海軍の駆逐艦によって「売国奴」として逮捕されてしまう場面で、残された労働者たちがたどり着いた痛切な認識です。公平な裁定者であるはずの国家権力が、あっけなく資本家の側に立ち、労働者を弾圧したという絶望的な事実。彼らが最後の望みを託したかもしれない「公の正義」は、自分たちを守るどころか牙を剥きました。法や国家という制度が、結局は強者の利益を守るために機能するという冷酷な現実を突きつけられたのです。この言葉は、外部の救済を諦め、自分たちの力だけで闘うしかないという悲壮な覚悟を物語っています。
「死を決して人生の戦場に上つて居るのだ。」
—— 島崎藤村『破戒』 [第拾九章]
【解説】
戦場とは、硝煙の立ち込める場所だけを指すのでしょうか。被差別部落出身という出自を隠して生きる教師・瀬川丑松は、同じ出自でありながら社会の因習と戦う思想家・猪子蓮太郎の姿に自らを重ねます。周囲から奇異の目で見られようとも、病に蝕まれた体を顧みず、ただひたすらに社会と対峙し続ける蓮太郎。その生き様は、丑松の目にはまるで死を覚悟して戦場に赴く兵士のように映りました。この言葉は、社会の不条理や偏見という見えざる敵に対し、一身を賭して正義を貫こうとする人間の、悲壮で気高い決意を物語っているようです。それはまた、己の出自に悩み、沈黙を守る丑松自身の内なる葛藤を映し出す鏡にもなっているはずです。
「選挙は一種の遊戯で、政事家は皆な俳優に過ぎない、吾儕は唯見物して楽めば好いのだと。」
—— 島崎藤村『破戒』
【解説】
政治とは、市民のための崇高な営みか、それとも巧みな役者たちが演じる見世物なのでしょうか。この言葉は、千曲川を下る舟に乗り合わせた僧侶が、選挙戦を揶揄して語ったものです。彼は、有権者の歓心を買おうと奔走する政治家たちを「俳優」に、そして選挙そのものを「遊戯」になぞらえ、自分たち一般人はそれをただ見物して楽しめばよいのだと冷笑します。このシニカルな視点は、理想や正義を掲げる政治の裏にある欺瞞や大衆迎合主義を鋭く穿っています。社会の行く末を左右するはずの営みが、一部の人々の利害が絡むだけの茶番に見えてしまうという民衆の諦観や政治不信が、この軽妙なようでいて辛辣な一言に凝縮されているかのようです。
「殺したのは罪に相違ない。しかしそれが苦から救うためであったと思うと、そこに疑いが生じて、どうしても解けぬのである。」
—— 森 鴎外『高瀬舟』
【解説】
法が裁く罪と、人が情で赦す行いとの間には、どれほどの隔たりがあるのでしょうか。本作は、弟殺しの罪で遠島となる喜助を護送する同心・庄兵衛の視点で描かれます。庄兵衛は、罪人とは思えぬほど晴れやかな喜助から事件の真相を聞き、その行為が苦しむ弟を救うための安楽死にも似たものであったと知ります。この一文は、法の名の下に「罪」と断定される行為の裏にある人間的な動機に触れ、単純な善悪二元論では割り切れない深い疑念に囚われる庄兵衛の心境を的確に表しています。社会の定めた法と、個人の内なる倫理が衝突する時、真の正義はどこにあるのか。作者は明確な答えを示さず、読者一人ひとりの胸中に静かな問いを投げかけているのです。
「
—— 田中 正造『土地兼併の罪悪』 [田中 正造]
【解説】
もし国家が、法の名を借りて民を欺くとしたら、それは何と呼ばれるべき行為でしょうか。この演説で田中正造は、足尾鉱毒事件の被害地である谷中村を「貯水池」にするという名目で行われた、政府による土地買収の不正を糾弾します。彼は、明確な法的根拠もなく、住民を経済的・精神的に追い詰めて土地を手放させるその手法は、単なる行政手続きではなく「詐欺」そのものであると断言しました。正当な法律に基づかず、権力を行使して民の財産を奪うことは、国家による最大の不正義であるという怒りが込められています。正造の言葉は、法が常に正義の側にあるとは限らないという厳しい現実を物語っています。
「是れ正義人道より生ずる当然の義務なり。」
—— 田中 正造『非常歎願書』 [田中 正造]
【解説】
目の前の苦しむ人を見過ごすことは、果たして許されるのでしょうか。この文章は、栃木県の谷中村が強制的に廃村させられようとしている窮状を、隣の群馬県に訴え、助けを求める「非常歎願書」です。田中正造は、行政区画が違うからといって無関係ではいられないと主張します。困窮する隣人を救うことは、法律や制度以前の、人間としての正義であり、当然の義務だと力説するのです。彼の訴えは、形式的な法の枠組みを超え、より根源的な「人道」という正義の基準に立脚しています。この言葉は、私たちに、所属や立場といった壁を乗り越えて手を差し伸べることの普遍的な価値を教えてくれるようです。
「民を殺すは國家を殺すなり。法を
—— 田中 正造『亡国に至るを知らざれば之即ち亡国の儀に付質問』 [田中 正造]
【解説】
国を滅ぼすもの、それは外敵ではなく、内なる不正義かもしれません。田中正造は、演説の冒頭で、鉱毒問題を放置する政府の姿勢こそが国を滅ぼす行為だと、強い危機感を表明します。彼は、国民の命を軽んじることは国家そのものを殺すことであり、法をないがしろにすることは国家そのものを蔑むことだと、力強い対句で断じました。これは、国民の生命と法の支配こそが国家存立の基盤であり、この二つが損なわれた時、国は実質的に亡んだも同然だという、正義に根差した国家観を示しています。この言葉は、政治の最も重い責任がどこにあるのかを、時代を超えて私たちに問いかけているようです。
(編集協力:井下 遥渚、佐々 桃菜)
静寂の極致:文豪たちが辿り着いた死生観
命の終わりを「露と花」の無常観に見出した鴨長明、そして死が日常と化した極限の現実を描いた原民喜。文豪たちは、外的な苦悩が渦巻く世界の中で、いかに魂を解放し、静けさを獲得しようとしたのでしょうか。生への執着を肯定する三木清の逆説、運命を潔く引き取る宮沢賢治の受容を通し、その究極の境地を探ります。
誇りが持つ二つの顔:魂を磨く力と、心を蝕む毒
新渡戸稲造は、人に笑われても、自分の中で正しいと思える生き方こそが本物の誇りだと説きました。しかし、菊池寛の「形」へのこだわりや、中島敦の「山月記」が描くように、自尊心は時に心の怪物となってその人を追い詰めます。自分を強くする武器となるのか、それとも自分を滅ぼす毒となるのか。彼らの言葉かを通し、魂の底に潜む自尊心の深淵を覗きましょう。
風土を歩く思索:八雲、烏水、独歩が捉えた風景の永遠と呼吸
凍てつく夜道の足音や、光に溶け、まどろむ林。歩く者の五感を通して、その土地固有の「風土」は鮮やかな詩となります。八雲の幽玄な情景、烏水が探る人間味の深さ、そして独歩が武蔵野に見出した永遠の静寂。日常を離れ、風景の奥に潜むその土地ならではの「永遠の呼吸」に耳を澄ませてみましょう。
都市と田園の狭間で:近代文学が映す心の風景
埃っぽい都会の片隅に見出すささやかな自然の恵みと、故郷の素朴な風景への尽きぬ郷愁。永井荷風や横光利一は都会の喧騒の中で心の拠り所を見出し、夏目漱石らは都市が内包する矛盾と人間の本質を鋭く見つめました。近代の作家たちが都会と田園の対比を通して描いた、移ろいゆく時代の風景と、その中で揺れ動く心の機微を探ります。