失われた真理を求めて —— 成熟という名の堕落

「子供に戻りたい」という願いは、単なる懐古趣味ではありません。それは、社会適応の過程で手放してしまった「世界のありのままを映す鏡」への渇望です。 理性や計算で武装した大人の欺瞞を、彼らの圧倒的な「今を生きる力」が静かに、そして鋭く射抜いていきます。

Humanitext Aozoraの写真
著者:Humanitext Aozora
子どもの写真

「子供であることをうれしいとは、子供は思っていない。子供はまじめなんだ。」
—— 小川未明『幾年もたった後』 [太陽]

【解説】
「子供に戻りたい」という大人の願いは、実は子供に対する最大の誤解かもしれません。大人は子供時代を責任のない無邪気な楽園として懐かしみますが、当の子供たちはその瞬間を真剣に、必死に生きています。彼らにとって世界は単なる遊び場ではなく、対峙すべき現実そのものなのです。太陽の言葉を借りたこの逆説的な警句は、安易な感傷を排し、子供という存在の尊厳を鋭く突いています。子供を「かわいらしい存在」として消費するのではなく、一人の真剣な人間として向き合うことの大切さを、この言葉は教えてくれます。


「子供は、いつも美しいし、子供の心は、いつも朗らかだ。」
—— 小川未明『子供は悲しみを知らず』

【解説】
曇りのない鏡のように、世界をありのままに映し出す心を持っていますか?どんなに叱られても、次の瞬間には悲しみを忘れ、楽しさを見つけ出す子供たち。その切り替えの早さは、彼らが過去や未来にとらわれず、「今」を全力で生きている証拠です。大人のように鬱屈した感情を引きずらず、常に美しさを見出すその朗らかさは、私たちが目指すべき魂の在り方を示唆しているようです。大人が道を誤り、世界を暗くしているだけで、本来の世界は子供の瞳に映るように、光と喜びに満ちているのかもしれません。


「すべての空想が、その華麗な花と咲くためには、豊饒の現実を温床としなければならぬ」
—— 小川未明『新童話論』

【解説】
美しい花が咲くためには、肥沃な土壌が必要なのと同じことでしょう。日本のアンデルセンとも呼ばれた著者は、空想と現実を対立するものとは捉えていません。むしろ、現代の子供たちの知識や生活実感(=現実)に深く根ざしてこそ、真に魅力的な空想(=童話)が生まれると説きます。かつての月の兎の話が通用しなくなったのは、子供たちが詩心を失ったからではなく、彼らの現実認識が変化したからです。新しい時代の童話は、科学や現代生活という「豊饒の現実」を土台にしつつ、そこからさらに高く羽ばたく夢でなければならないのです。


「自由な世界――創造の世界――神秘の世界――これが即ち童話であります。」
—— 小川未明『童話の詩的価値』

【解説】
童話とは単なる作り話ではなく、魂が原初的に求めてやまない自由な領分ではないでしょうか。小川未明は、子供の持つ鋭い直感と無邪気さを称揚し、彼らこそが真のロマンチシストであると断じます。大人が社会生活の中で失ってしまった「思想上の故郷」としての子供心を取り戻す営みこそが、彼にとっての創作の原動力でした。ここでは現実の拘束を離れ、純粋な魂同士が共鳴し合う至高の場所として童話が定義されています。論理や利害を超えたその世界への扉は、ただ無垢な心を持つ者にのみ、静かに開かれることでしょう。


「人間の児童は真理の国に生活する。」
—— 金田鬼一『グリム童話集』序

【解説】
子供たちは誰に教わるでもなく、世界の秘密を知っているのかもしれません。鳥が空を飛び、魚が水に棲むように、子供は生まれながらにして「真理の国」の住人であると訳者は語ります。大人が良かれと思って与える作為的な教訓は、しばしばこの自然な純真さを損なう「悪魔的な好意」になりかねません。グリム童話が真に価値を持つのは、それが教育的な意図を超えて、大自然の摂理や人間の素朴な魂をそのまま映し出しているからでしょう。大人は子供を導くのではなく、彼らが住む真理の国を尊重し、そこから学ぶべきなのです。


「すべての子供たちは、本來「夢」の中で育ち、そして夢を見ることによつて生き、夢を榮養食することによつて自己を生育させてゐるのである。」
—— 萩原朔太郎『童話と教育について』

【解説】
夢を食べるのはバクだけではなく、子供たちもまた夢を糧にして魂を太らせているのです。詩人は、子供にとっての「夢」や「空想」が決して現実逃避ではなく、成長のために不可欠な栄養素であると説きます。大人から見れば荒唐無稽な魔法や冒険も、子供にとっては切実なリアリティそのものです。安易な科学主義や合理性だけで塗り固められた「事実の童話」は、子供の心には届きません。ファンタジーという名の心の食事を奪うことは、彼らの精神的な発育を阻害することに他ならないのです。


「素直な子供を見ていると、なにもかもが備っているように、保証されているように思えてきます。」
—— 小山清『聖アンデルセン』

【解説】
無垢な瞳の前では、大人の抱える欠落や不安など、初めから存在しなかったかのように思えてくるものです。小山清は、公園で子供たちに自作の童話を語って聞かせる時間を愛し、自身を「聖アンデルセン」になぞらえつつ、その子供好きな性質を告白します。子供の素直さは、それ自体が完全な世界であり、見ているだけで救済を感じさせる力があります。孤独な生活の中にあっても、童話への憧れと子供への愛だけは、彼にとって確かな光として存在し続けました。その眼差しは、ドン・キホーテのように滑稽でありながら、同時に聖なる純粋さを湛えているのです。


「わがは歩む。嬉々として、もう汗だらけになつて。」
—— 千家元麿『自分は見た』

【解説】
幸福というものは、案外、汗まみれの小さな背中をして歩いているのかもしれません。町の中を好奇心のままに歩き回り、誰にでも屈託のない笑顔を向ける我が子。その姿は、偏見や計算を知らない純粋な生命力の塊です。父はその後ろ姿を見守りながら、子どもこそが「幸福」の具現化であることを確信します。転んでも汚れを気にせず前へ進む健気さが、読む者の心に温かい光を灯します。


(編集協力:井下 遥渚、佐々 桃菜)

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