古代の知恵:学びと教養に関する箴言集

デルポイの箴言からプルタルコスの学びの本質まで。古代ギリシア・ローマの賢人たちが遺した、「善く生きる」ための教養の真髄に迫ります。

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著者:Humanitext Antiqua
古代ギリシアの知恵の写真

“γνῶθι σαυτόν καὶ μηδὲν ἄγαν.”
「汝自身を知れ、そして何事も度を過ごすな。」
—— Plato Protagoras 343b

【解説】
外なる世界を探求する前に、まず内なる自己を探求せよ。この二つの句は、デルポイのアポロン神殿に刻まれたと伝えられる、古代ギリシアの知恵の結晶です。プラトンはソクラテスの口を通して、寡黙ながら含蓄深い言葉を発するスパルタ人の知性を称賛し、その頂点にあるものとして七賢人の箴言を引用します。自己の限界や無知を知ることから始まる「自己認識」と、極端を避けて調和を重んじる「中庸」の精神は、あらゆる学びと教養の基礎となるものです。これらは単なる知識を超え、善く生きるための指針として、時代を超えて私たちの心に響き続けるでしょう。


“τέχνην ἀσκητέον ἐστὶ διὰ παντὸς τοῦ βίου καὶ παραμένουσαν”
「生涯を通じて側にある技術をこそ、修練すべきである」
—— Galen Adhortatio ad artes addiscendas 14

【解説】
若さの力はいつか衰えますが、老いてなお輝きを増すものがあります。ガレノスは、肉体の力に頼るアスリートや手仕事の職人と、知的な技術を持つ人々を対比し、若者たちに後者の道を選ぶよう強く勧めます。肉体労働に依存する技術は、身体が衰えれば価値を失ってしまいます。しかし、医術や法学、哲学といった理性的な「技術(τέχνη)」は、一度身につければ生涯を通じてその人を支え、決して見捨てることはないのです。この一句は、学びがもたらす教養が、時とともに色褪せることのない不変の財産であることを力強く宣言しています。それはまるで、人生という長い旅路を共に歩んでくれる、賢明で信頼できる友人のようではないでしょうか。


“Σοφὸν γὰρ ἓν βούλευμα πολλὰς χεῖρας νικᾷ”
「というのも、一つの賢い計略は多くの腕力に勝るからだ」
—— Galen Adhortatio ad artes addiscendas 13

【解説】
無数の兵士の腕力と、一人の将軍の知略、戦局を決するのはどちらでしょうか。ガレノスは、怪力で名高いアスリートの無益な力自慢を語り、それとは対照的に、知略で国を救ったテミストクレスを称賛します。その文脈で、劇作家エウリピデスのこの一句が引用されます。この言葉は、単なる物理的な力や数の優位よりも、一つの優れた知性から生まれる洞察や計画の方が、はるかに大きな力を持ちうるという真理を突いています。学びと教養によって磨かれた「賢い計略」こそが、生の様々な局面で決定的な勝利をもたらすのだと、ガレノスは主張しているのです。腕力は目に見えますが、本当に世界を動かすのは、目に見えない知性の働きなのかもしれません。


“μᾶλλον ὁμονοοῦντας καὶ πλείω κατορθοῦντας τοὺς ταῖς δόξαις χρωμένους ἢ τοὺς τὴν ἐπιστήμην ἔχειν ἐπαγγελλομένους.”
「知識を持つと公言する者たちよりも、思慮分別を用いる者たちの方が、より意見が一致し、より多くを成し遂げる。」
—— Isocrates Against the Sophists 8

【解説】
机上の空論を振りかざす者と、現実を見据えて判断する者、どちらがより多くのことを成し遂げるでしょうか。イソクラテスは、未来を予知できるかのような絶対的な「知(エピステーメー)」を教えると豪語するソフィストたちを厳しく批判しています。彼によれば、確実な知識よりも、現実の複雑な状況の中で的確な判断を下す実践的な思慮分別(ドクサ)こそが、人々を協調させ、物事を成功に導く力を持つのです。この言葉は、真の学びと教養が、単なる専門知識の蓄積ではなく、それを現実の問題解決に応用する賢慮にあることを教えてくれます。知識はあくまで道具であり、それをいかに使いこなすかという思慮こそが、私たちをより良い実践へと導く鍵となるのでしょう。


“μεγάλας ποιοῦσι τὰς τέχνας οὐχ οἱ τολμῶντες ἀλαζονεύεσθαι περὶ αὐτῶν, ἀλλʼ οἵτινες ἂν, ὅσον ἔνεστιν ἐν ἑκάστῃ, τοῦτʼ ἐξευρεῖν δυνηθῶσιν.”
「技術を偉大にするのは、それについて大言壮語する者たちではなく、それぞれの技術のうちに内在するものを発見できる者たちである。」
—— Isocrates Against the Sophists 10

【解説】
磨けば光る原石のように、あらゆる学問や技術にはまだ見ぬ可能性が秘められています。イソクラテスは、弁論術をあたかも文字を教えるように簡単に伝授できると吹聴する教師たちを批判し、真の技術とは何かを説きました。彼によれば、ある技術の価値を高めるのは、その効果を大げさに宣伝する者ではなく、その技術が持つ本質的な可能性を深く探求し、見つけ出すことができる謙虚な探求者です。この一節は、学びとは完成された知識を受け取ることではなく、対象の奥深くに分け入り、その真価を自らの手で発見していく創造的な営みであることを示唆しています。表面的な喧伝に惑わされず、本質を探究する姿勢こそが、真の教養へと至る道なのかもしれません。


“malim equidem indisertam prudentiam quam stultitiam loquacem”
「おしゃべりな愚かさよりは、むしろ口下手な賢明さを望む。」
—— Cicero De Oratore 3.142

【解説】
立て板に水と話す愚か者と、言葉少なな賢者、あなたはどちらの言葉に耳を傾けたくなるでしょうか。この言葉は、キケロが理想の弁論家像を語る中で、登場人物クラッススに言わせたものです。彼は、弁論術が単なる言葉の技術ではなく、あらゆる学問に裏打ちされた深い知恵を必要とすると説きます。この一節は、内容の伴わない饒舌さを鋭く批判し、たとえ表現が拙くても、思慮深さに根差した知性こそが尊いという価値観を鮮やかに示しています。真の学びとは表面的な知識の披露ではなく、物事の本質を捉える賢明さを培うことなのです。この短い対句には、見せかけの才よりも本質的な知性を重んじる、古代ローマの教養人の確固たる信念が凝縮されていると言えるでしょう。


“οὐ γὰρ ὡς ἀγγεῖον ὁ νοῦς ἀποπληρώσεως ἀλλʼ ὑπεκκαύματος μόνον ὥσπερ ὕλη δεῖται, ὁρμὴν ἐμποιοῦντος εὑρετικὴν καὶ ὄρεξιν ἐπὶ τὴν ἀλήθειαν.”
「知性とは満たされるべき器ではなく、点火されるべき燃料のようなものであり、探求への衝動と真理への渇望を呼び起こすものを必要とするのだ。」
—— Plutarch On Listening to Lectures 48c

【解説】
学びとは、知識を注ぎ込む作業なのでしょうか、それとも心に火を灯す営みなのでしょうか。プルタルコスは、講義を聴く若者の姿勢を論じる中で、この有名な比喩を用いて学びの本質を説きます。彼は、ただ情報を詰め込む受動的な学習を批判し、知性は自ら燃え上がるための「きっかけ」をこそ必要とするのだと考えました。この言葉は、教養が単なる知識の蓄積ではなく、探求心や真理への情熱といった内なる動機付けによって育まれることを示唆しているでしょう。教育の目的は器を満たすことではなく、魂という薪に火をつけ、自発的な探求へと駆り立てることにあるのです。


“ἐν δὲ τῇ τοῦ λόγου χρείᾳ τὸ δέξασθαι καλῶς τοῦ προέσθαι πρότερόν ἐστιν.”
「言葉を用いるにあたっては、巧みに受け取ることが、送り出すことよりも先である。」
—— Plutarch On Listening to Lectures 38e

【解説】
話すことと聴くこと、どちらが学びの出発点だと思いますか。プルタルコスは、多くの若者が話術を磨くことばかりに熱心で、聴く技術を疎かにしていると指摘します。彼は、言葉のやり取りを球技に喩えつつも、まず相手の言葉を正しく受け止める能力が、自らの言葉を発する能力に先行すると断言しました。この一節は、学びや教養の基礎が「傾聴」にあることを力強く示唆しています。他者の思想を正確に理解し、内省するプロセスを経て初めて、自分の意見もまた深められるのでしょう。真の対話は、発信よりも受信から始まるという、時代を超えた戒めがここにあります。


“οὐ φευκτέον ἐστὶ τὰ ποιήματα τοῖς φιλοσοφεῖν μέλλουσιν, ἀλλὰ προφιλοσοφητέον τοῖς ποιήμασιν.”
「哲学を志す者は詩を避けるべきではなく、むしろ詩によって哲学への準備をすべきである。」
—— Plutarch How the Young Man Should Study Poetry 15f-16a

【解説】
芸術の楽しさと学問の厳しさ、この二つは対立するものでしょうか、それとも手を取り合うものでしょうか。プルタルコスは、詩が時に嘘や誇張を含むことを認めつつも、それを哲学の入り口として活用すべきだと説きます。詩の持つ魅力や物語の楽しさを通じて、若者は自然と倫理的な問いや人間性の探求へと導かれるからです。この一節は、教養形成における文学の重要な役割を見事に表現しています。難解な哲学理論に直接挑む前に、詩の世界で楽しみながら思索に親しむこと、それこそが哲学への最良の準備運動になる、という考え方です。学びの道は、必ずしも険しいだけではないのです。


“μόνοι γὰρ ἃ δεῖ βούλεσθαι μαθόντες, ὡς βούλονται ζῶσι.”
「なぜなら、何を欲すべきかを学んだ者だけが、自らの欲するように生きるからだ。」
—— Plutarch On Listening to Lectures 37e

【解説】
本当の自由とは、何でも好き勝手にできることでしょうか、それとも何かを学ぶことで得られるのでしょうか。プルタルコスは、若者が成人し、子供時代の束縛から解放された時こそ、理性を新たな導き手とすべきだと説きます。彼は、欲望の奴隷となる生き方と、理性に従う生き方を対比させ、後者こそが真の自由だと論じました。この言葉は、学びと自由の深い関係を明らかにしています。教養とは、移ろいやすい欲望に振り回されるのではなく、人間として真に「欲すべきこと」は何かを学び、その知識に基づいて自分の人生を選択する力のことなのです。これこそが、自律した人間として「欲するように生きる」唯一の道だと言えるでしょう。


(編集協力:中山 朋美、内海 継叶)

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