“οὐκ αἰεὶ θέρος ἐσσεῖται, ποιεῖσθε καλιάς.”
「夏は永遠には続かない、小屋を作れ。」
—— Hesiod Works and Days, 503
【解説】
来るべき冬に、どう備えるべきでしょうか。ヘシオドスは、厳しい冬の寒さが労働を妨げる前に、勤勉な者は家を富ませることができると説きます。この一句は、夏のまだ暑い盛りに、冬を越すための小屋作りを怠るなと命じる場面の言葉です。これは単なる農作業の助言を超えて、好機を逃さず将来のために準備を整えるという、暮らしの段取りにおける普遍的な知恵を示唆していると言えるでしょう。永遠に続く好況などないという戒めは、現代を生きる私たちにも深く響くものがあるはずです。
“μηδʼ ἀναβάλλεσθαι ἔς τʼ αὔριον ἔς τε ἔνηφιν.”
「明日へ、明後日へと延期するな。」
—— Hesiod Works and Days, 410
【解説】
「後でやろう」という誘惑は、いつの時代も人の心に忍び寄るものでしょうか。ヘシオドスは、弟ペルセスに農作業の心得を説く中で、この有名な警句を突きつけます。先延ばしにする者は納屋を満たすことができず、常に破滅と隣り合わせだと厳しく戒めるのです。農耕という、自然の巡りに合わせて時機を逃さず働くことが求められる営みにおいて、先延ばしは致命的な過ちでした。この言葉は、仕事の段取りにおける即時実行の重要性を、時代を超えて私たちに力強く訴えかけているかのようです。
“ἔργον δʼ οὐδὲν ὄνειδος, ἀεργίη δέ τʼ ὄνειδος.”
「いかなる仕事も恥ではない、怠惰こそが恥なのだ。」
—— Hesiod Works and Days, 311
【解説】
働くことと、働かないこと、どちらが人間の尊厳に関わるのでしょうか。古代ギリシアの詩人ヘシオドスは、怠惰な弟ペルセスを諭す中で、この力強い対句を提示します。彼によれば、神々も人々も、蜜蜂の労苦を横取りする雄蜂のような怠け者を憎むのです。労働を通じて富を築く者は、徳と名声をも手に入れると説かれています。この短い一句は、労働そのものに価値を認め、怠惰を倫理的な欠陥として断罪する、古代農耕社会の厳しくも健全な労働観を凝縮しています。仕事とは、生きる糧を得る手段であると同時に、人間としての誇りの源泉でもあったのです。
“ὀρθῶς δὲ ἐπιμελομένῳ καὶ μὴ καταμαλακιζομένῳ μᾶλλον εἰκὸς τὸν οἶκον αὔξεσθαι.”
「正しく気を配り、軟弱にならなければ、家はますます栄えるのが道理だろう。」
—— Xenophon Economics, 11.12
【解説】
健やかな身体と、豊かな家産、どちらが欠けても暮らしは成り立ちません。これは、理想的な家政管理者であるイスコマコスが、自身の健康維持と財産管理が分かちがたく結びついていると語る一節です。彼は、日々の労働や鍛錬が健康と体力をもたらし、その勤勉さが家の繁栄に直結すると考えています。ここには、仕事や暮らしを成り立たせる上で、精神的な弛緩を戒め、細やかな配慮を続けることこそが成功の鍵であるという思想が明確に見て取れます。勤勉な日々の積み重ねが、家という共同体を育む土壌となるのです。
“ἔστι δʼ οὐδὲν οὕτως […] οὔτʼ εὔχρηστον οὔτε καλὸν ἀνθρώποις ὡς τάξις.”
「人間にとって、秩序ほど有用で美しいものはない。」
—— Xenophon Economics, 8.3
【解説】
美しい合唱団と、機能的な軍隊、そして整頓された家には、ある共通の原理が流れています。それは「秩序(タクスィス)」です。家政の達人イスコマコスは、探し物が見つからず困惑する若妻に、秩序の重要性を説きます。雑然とした集団が混乱しか生まないのに対し、整然と配置されたものは、見た目に美しいだけでなく、その機能を最大限に発揮できると語るのです。この言葉は、暮らしの段取りとは単なる片付け術ではなく、すべてのものをあるべき場所に置くことで、有用性と美しさを両立させる哲学なのだと教えてくれます。
“οὐ γνώμῃ διαφέροντες ἀλλήλων […] ἀλλὰ σαφῶς ἐπιμελείᾳ.”
「(彼らが)互いに優劣があるのは判断力によるのではなく、明らかに配慮(勤勉さ)によるのだ。」
—— Xenophon Economics, 20.6
【解説】
なぜ同じ知識を持っていても、結果に差が生まれるのでしょうか。クセノフォンは、その答えを「エピメレイア(配慮・勤勉さ)」に見出します。優れた計画や知識も、それを着実に実行する勤勉さが伴わなければ画餅に帰してしまいます。この言葉は、仕事の段取りにおいても全く同じことが言えるでしょう。真の能力とは、知っていることではなく、行うことの中にこそ現れるのです。
“numquam se minus otiosum esse, quam cum otiosus, nec minus solum, quam cum solus esset.”
「閑暇のときほど多忙なことはなく、孤独のときほど孤独でないことはない。」
—— Cicero De Officiis, 3.1
【解説】
静寂な時間と、賑やかな時間、どちらがより「仕事」をしていると言えるでしょうか。キケロは、ローマの偉大な将軍大スキピオが残したこの逆説的な言葉を引用します。スキピオは、公務から離れた閑暇な時間こそ政務について思索を巡らし、孤独なときには自身と対話することで、決して活動を止めなかったといいます。これは、目に見える労働だけでなく、内面で行われる思索や自己省察もまた重要な「仕事」であるという洞察を示しています。真の勤勉さとは、閑暇や孤独さえも創造的な活動の舞台に変えてしまう精神の働きにあるのです。
“in tota vita constituenda […] ut constare in perpetuitate vitae possimus nobismet ipsis.”
「全生涯を定めるにあっては、生涯を通じて自分自身であり続けられるよう(配慮せねばならない)。」
—— Cicero De Officiis, 1.119
【解説】
人生という舞台で、あなたはどのような役を演じますか。キケロは、人が生き方を選ぶ際には、運命や他者の期待よりも、まず自分自身の生来の性質(ナートゥーラ)に目を向けるべきだと説きます。この一節は、生涯にわたる計画、すなわちキャリアプランを立てる上で、最も重要な指針は「自分自身に忠実であり続けること」だと教えています。仕事や生き方の「段取り」とは、単に社会的な成功を目指すものではなく、自分という存在の一貫性を保ち、矛盾のない人生を築き上げるための、きわめて内面的な営みでもあるのです。
“hoc autem tunditur, ut fiat utile.”
「これは叩かれて、有用なものとなる。」
—— Pliny the Elder Naturalis Historia, 19.2
【解説】
一本の草が、いかにして文明を支える道具となるのでしょうか。大プリニウスは、舟の綱や履物の材料となるエスパルト草の加工法を記述しています。この一文は、収穫され、水に浸された草が、何度も叩かれる工程を経て初めて、強靭で水に強い有用な素材へと生まれ変わることを説明する箇所です。ここには、自然のままの素材に人間の労働が加わることで、新たな価値が生まれるという仕事の本質が凝縮されています。手間を惜しまぬ段取りこそが、単なる「モノ」を暮らしに役立つ「道具」へと変えるのです。
“nihil ergo intemptatum inexpertumque illis fuit, nihil deinde occultatum.”
「彼らにとって試みられざるもの、経験されざるものは何もなく、そして隠されたものも何もなかった。」
—— Pliny the Elder Naturalis Historia, 25.1
【解説】
過去の偉業と、現代の怠惰。プリニウスは、薬草の知識を後世に伝えようとした古代人の勤勉さを称賛し、それを秘匿する同時代人を嘆きます。引用した一節は、古代の探求者たちへの賛辞の言葉です。彼らは、険しい山々や未開の地をくまなく探索し、そこで得た知識を惜しみなく分かち合いました。この探求心と公開の精神は、まさに「仕事」における理想的な姿勢と言えるでしょう。プリニウスの言葉は、勤勉な探求と、その成果を社会に還元することの重要性を、私たちに思い起こさせてくれます。
(編集協力:中山 朋美、内海 継叶)
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