“sic te para tamquam in ignem impositurus vel puerum vel iuvenem vel senem”
「子どもを、赤子であれ若者であれ老人であれ、火葬の炎に付すかのように覚悟せよ」
—— Seneca De Consolatione ad Marciam 17.7
【解説】
我が子との別れを、いつ、どのように想像するでしょうか。ストア派の哲学者セネカは、娘を亡くしたマルキアを慰める書簡の中で、子を持つことの不確かさを説きます。親は、子どもが自分より先に逝く可能性を常に心に留め、どんな年齢で訪れるかもしれない死をも覚悟しておくべきだと語ります。これは、避けられない運命を直視することで、心の平静を保とうとするストア派的な心構えの表れと言えるでしょう。
“Ad hoc genitus es, ut perderes, ut perires”
「お前は失うために、そして滅びるためにこそ、生まれたのだ。」
—— Seneca De Consolatione ad Marciam 17.1
【解説】
私たちは、何のためにこの世に生を受けたのでしょうか。セネカは、子を失った悲しみは辛いことだが、それは「人間的」なことだ、と厳しくも冷静に語ります。この一文は、ストア哲学の核心にある運命観を端的に示しています。人間は生まれながらにして、愛するものを失い、そして自らも死にゆくという避けられない運命を背負っているのです。この冷徹な事実を直視し、受け入れることこそ、人生の苦悩から心を解放する道であるとセネカは考えました。これは、甘い慰めではなく、理性の力で運命と向き合うための厳しい処方箋なのです。
“Numquam non felicem me dicam, quae Gracchos peperi.”
「グラックス兄弟を産んだ私は、決して不幸ではないと言おう。」
—— Seneca De Consolatione ad Marciam 16.3
【解説】
悲劇の母か、それとも栄光の母か。セネカは、息子を失ったマルキアを励ますため、ローマ史上名高い母コルネリアの逸話を紹介します。彼女は二人の息子を非業の死で失いました。周囲が彼女を「哀れな母」と呼んで慰めたのに対し、コルネリアは毅然としてこう答えたのです。この言葉は、子どもの死という最大の悲劇に直面してもなお、その子をこの世に生み出したこと自体を自らの誇りとする、母親の強靭な精神を示しています。喪失の痛みを超えて、存在そのものを肯定する究極の母の愛がここにあります。
“ὡς τοῦ τεκεῖν καὶ θρέψαι τέλος οὐ χρείαν ἀλλὰ φιλίαν ἔχοντος.”
「産み育てることの目的は、必要性ではなく、愛情にあるのだから。」
—— Plutarch On Affection for Offspring 3, 496c
【解説】
母の胸は、ただの栄養補給の泉ではないのかもしれません。プルタルコスは、自然がいかに精巧に母体と母性愛を設計したかを情熱的に語ります。彼は、母親の胸が赤ん坊を抱きしめ、口づけしやすい位置にあることに着目し、そこに深い意図を見出しました。それは、子育てという行為の最終目的が、単に生命を維持するという「必要性」にあるのではなく、親子の間に育まれる「愛情(フィリア)」そのものにあるという洞察です。この言葉は、生物学的な仕組みの背後に、人間的な絆を育むという自然の崇高な目的が隠されていることを示唆しています。
“μισθοῦ γὰρ ἄνθρωπον τίς ἄνθρωπον φιλεῖ?”
「報酬のために、人が人を愛することがあろうか?」
—— Plutarch On Affection for Offspring 2, 495a
【解説】
愛に見返りを求めるのは、果たして本当の愛なのでしょうか。プルタルコスは、当時の風潮であった「人は利益のために他者を愛する」という考えに、動物の無償の愛を対置して反論します。犬が子犬を、鳥が雛を愛するのは、将来の介護や見返りを期待してのことではありません。それはただ、自然が与えた純粋な愛情の発露なのです。この痛烈な問いかけは、人間社会における親子関係でさえ、時に損得勘定に染まってしまうことへの警鐘となっています。そして、真の愛情とは本来、見返りを求めないものであるべきだと強く訴えかけているのです。
“καθόλου γὰρ ἡ πρὸς τὰ ἔκγονα φιλοστοργία καὶ τολμηρὰ τὰ δειλὰ ποιεῖ”
「総じて、子孫への愛情は、臆病なものを勇敢にするのだ。」
—— Plutarch On Affection for Offspring 2, 494d
【解説】
何が臆病者を英雄に変えるのでしょうか。プルタルコスは、動物たちの驚くべき子育ての習性を挙げながら、その原動力こそ子を思う愛情(フィロストルゴン)だと喝破します。普段は臆病な鳥や獣も、我が子を守るためとなれば、己の危険を顧みずに敵に立ち向かっていきます。この言葉は、親の愛情が単なる感情にとどまらず、自己犠牲や並外れた勇気を引き出す根源的な力であることを示しています。それは、生物に深く刻まれた、生命をつなぐための崇高な本能なのです。
“est enim quaedam et dolendi modestia.”
「悲しむにも、ある種の節度というものがあるのだ。」
—— Seneca De Consolatione ad Marciam 3.4
【解説】
悲しみに終わりはなくとも、悲しみ方には節度がある。ストア派の哲学者セネカは、息子を亡くしたマルキアに対し、初代皇帝アウグストゥスの妻リウィアの振る舞いを模範として示します。リウィアは息子ドルススを失った際、深い悲しみにありながらも、取り乱すことなく威厳を保ちました。セネカはこの言葉を通して、悲しみに完全に身を委ねてしまうのではなく、理性によってそれを制御し、品位を保つことの重要性を説いています。これは、感情に溺れることなく、人間としての尊厳を失わないというストア派の倫理観を反映した、親のための実践的な助言と言えるでしょう。
“Cuius non lacrimas illius hilaritas supprimat?”
「その子の陽気さが、誰の涙を押し留めないだろうか(いや、誰の涙をも押し留めるだろう)」
—— Seneca De Consolatione ad Helviam 18.5
【解説】
深い悲しみの淵にいるとき、一条の光を投げかけてくれるものは何でしょうか。追放先のコルシカ島から母ヘルウィアを慰める手紙の中で、セネカは自身の不在を嘆く母に、残された家族に目を向けるよう促します。とりわけ、孫であるマルクスの存在は大きな慰めになると語りました。この一文は、幼い子どもの屈託のない陽気さや無邪気な饒舌さが、大人の凝り固まった心を解きほぐし、どんな深い悲しみの涙さえも乾かす力を持っていることを示しています。家族の絆、特に世代を超えた交流の中に、苦しみを乗り越えるための癒やしが見出されるのです。
“ἢ δέος ἢ λύπη παῖς· πατρὶ πάντα χρόνον”
「子どもとは、恐怖か悲しみか、そのどちらかだ。父にとっては、常に。」
—— Plutarch On Affection for Offspring 4, 497a
【解説】
喜びと希望の源であるはずの子どもが、恐怖と悲しみの種にもなる。プルタルコスは、詩人エウエノスのこの痛烈な一句を引用し、子育てに潜む根源的な不安を浮き彫りにします。親は子どもの成長と成功を見届ける前に世を去ることが多く、その栄光を知ることは稀です。むしろ親が見るのは、幼い頃の未熟さや、若さゆえの過ちばかりかもしれません。それでもなお子を育てる親の姿は、見返りを期待しない愛情の深さを逆説的に物語っているのです。
“οὕτως ἡ φύσις ἐν αὐτοῖς τοῖς ἡμαρτημένοις ἤθεσι καὶ πάθεσιν ἐκφαίνει τὸ πρὸς τὰ ἔκγονα φιλόστοργον.”
「このように自然は、過ちを犯した性格や情念のまっただ中にあっても、子孫への愛情を輝かせるのだ。」
—— Plutarch On Affection for Offspring 5, 497e
【解説】
土にまみれた鉱石の中に、なおも金の輝きが見えるように、人間の心にも消えない光があるのでしょうか。プルタルコスは、たとえ人間が過ちやすい不完全な存在であっても、その心の奥底には子を想う自然な愛情が宿っていると説きます。彼はこの愛情を、あらゆる欠点や激情の中でもなお輝きを放つ黄金になぞらえました。この一文は、親の愛情が人間の最も根源的で純粋な部分に根差していることを示唆しているのです。
(編集協力:中山 朋美、内海 継叶)
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